はぶて虫のささやき

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(旧:はぶて日記)

たいしんとぶらいあん

2020-04-13 | 日記
たまには武漢肺炎(新型コロナ)以外の話題を・・・

1993年の皐月賞馬・ナリタタイシンが亡くなったそうだ。

別にナリタタイシン自体には、特に思い入れはなかったが、このナリタタイシンの調教師である大久保正陽には、いろいろと言いたいことがあった。

一般的に、この調教師は「名伯楽」みたいな言い方をされているが、私はこの調教師が嫌いだった。

実績は申し分ない。

育てた馬には、このナリタタイシンの他にも、ナリタブライアン、メジロパーマー、シルクジャスティスなどGⅠ馬がずらりと並んでいる。

しかし、このナリタタイシンとナリタブライアンの使い方を見て、当時結構憤慨した覚えがある。

まず、ナリタタイシン。

皐月賞を勝ち、ダービー3着後、普通は夏場の休養に入る。

しかし、この調教師はタイシンを7月に開催されていた高松宮杯(GⅡ、当時は距離が2000m)に使った。

当然のことながら1番人気となったが、結果は2着。

この後の休養に失敗し、鼻出血等を発症したにもかかわらず、タイシンを菊花賞に出走させた。

結果は、無様なほどの負けっぷりで、勝ったビワハヤヒデから9秒以上も離されるという屈辱的な大敗を喫している。

ただし、その後ろからさらに数秒遅れてネーハイシーザーがゴールしているので、ビリではなかった。

その後目黒記念で一時は復活し、天皇賞(春)も2着だったが、再び宝塚記念で惨敗して、そのまま引退した。


そして、ナリタブライアン。

一部には「ディープインパクトよりも強かった」とも言われる3冠馬だが、4歳(当時は5歳)の時に、体調不安が伝えられたにもかかわらず、秋のGⅠ(天皇賞、ジャパンC、有馬記念)に出走し、いずれも完敗している。

そして5歳(当時の表記では6歳)の時に、3200mの天皇賞(春)に2着だった後、なぜか1200mの高松宮記念に出走している。

この起用方法には、当時から批判もあったが、結果は4着。

スタートからついていけず、最後の直線では鋭い追い込みを見せたが、優勝したフラワーパークからは0.8秒差だった。


この調教師は「レースで鍛える」をモットーにしている、と言われているが、この2頭を見る限り、私には単なる「小遣い稼ぎ」にしかみえなかった。

ナリタタイシンをどうして「高松宮杯」なんかに使ったのか、

ナリタタイシンをどうして「高松宮記念」に使ったのか。

競馬をナメている、というよりは、これだけの馬だから、出走すれば賞金を稼げるに違いない、と考えていたとしか思えないような暴挙だった、と私は思う。

2頭とも、かなり強い馬だったのに、大事に使えば、もっと走れたと思う。

特にナリタブライアンは、兄であるビワハヤヒデとの兄弟対決も見られたかも知れない、というのに、何とも残念だ。

まあ、これは大久保調教師には責任ないのだけど・・・


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