鉄人・衣笠祥雄が亡くなった。
大ファンであるからこそ、あえて敬称略でいく。
彼について、「偉大な選手」というイメージは、実はない。
強靱な体と精神力で、連続試合記録を達成し、通算2543安打、504本塁打、1448打点、266盗塁と、ある意味ものすごい記録も持っている。
同僚である「ミスター赤ヘル」山本浩二が、通算2339安打、536本塁打、1475打点、231盗塁と、ほぼ成績的には同格だ。
にもかかわらず、山本浩二の場合は「チャンスに強い」「彼が打てばチームの雰囲気が変わる」と言われていた一方、衣笠の場合は、そういうイメージがあまりない。
三振の数が、衣笠が1587に対して、山本浩二は1123。
常にフルスイングする衣笠だから、三振も併殺打も多かったイメージはある。
でも、彼は山本浩二同様、広島ファンに愛され続けた。
その理由は、彼の人柄ではなかろうか。
死球を受けても、謝ろうとする投手に対して「いいよ、いいよ」と手で制して何事もなかったかのように1塁に走っていく。
また、近鉄と死闘を演じた1979年の日本シリーズ・第7戦での、いわゆる「江夏の21球」の時の衣笠の江夏に対する言葉も有名だ。
無死満塁のピンチを背負った江夏に対して、広島カープベンチは、急ぎ救援投手の準備をさせる。
それを見た江夏は「何だ、オレが信用できないのか」と怒っているところに、それを察した衣笠が江夏のところに行き、「ベンチなんか気にするな。お前が辞める時は、オレも辞めてやるよ」と言った話だ。
もちろん、江夏と衣笠の仲が良かった、というのも大前提であるが、なかなか言える言葉ではないと思う。
余談だけど・・・
「江夏の21球」について、9回裏無死満塁のピンチから江夏が救援に立った、と誤解している人がいるみたいだけど、実はこの試合で江夏は7回途中からリリーフとして登板しており、当然のことながら無死満塁のピンチを作ったのは江夏自身である。
正確に言うと、江夏-水沼のバッテリーである。
あの時、江夏は先頭打者の羽田に初球をヒットされた。
そして、羽田の代走として出てきたのが、「盗塁を義務付けられた男・藤瀬」である。
当然のように、次打者アーノルドの時に盗塁を敢行し、水沼の悪送球も手伝って、一気に3塁まで進む。
カープバッテリーは、アールノドを敬遠したが、これまた代走で出た吹石(福山雅治の嫁さんである吹石一恵のお父さん)が盗塁を決めたので、無死1・3塁となる。
そのため、次打者の平野も敬遠で歩かせる。
実を言うと、この満塁策が、結果的に江夏がこのピンチをしのいだ要因と言えなくもないな、と当時思っていた。
なぜなら、この平野選手は、もともと「ガッツマン」と呼ばれるほどの熱い男だけど、このシリーズ絶不調で、前の試合までノーヒットだった。
しかし、この試合で初安打となる本塁打を放っていたので、流れとしても非常に厄介な打者だった。
こんな選手と、無死1・3塁で対戦したら、最低でも犠牲フライ、もしかしたら逆転サヨナラ3ランを打たれていたかも知れない。
そんな雰囲気があったからか、実際敬遠された平野は、「勝負せんかい」とばかりに江夏を睨んでいた。
この後のことは、ご存じの通りの展開で、見事ピンチを切り抜けたカープが、初の日本一となる。
その時の立役者江夏を奮起させたのが、この衣笠だったわけである。
以上、衣笠の思い出でした!?
一度でいいから、カープの監督をやってほしかったです。
いずれにしても、「記憶に残る」選手でした。
ご冥福をお祈りします。
大ファンであるからこそ、あえて敬称略でいく。
彼について、「偉大な選手」というイメージは、実はない。
強靱な体と精神力で、連続試合記録を達成し、通算2543安打、504本塁打、1448打点、266盗塁と、ある意味ものすごい記録も持っている。
同僚である「ミスター赤ヘル」山本浩二が、通算2339安打、536本塁打、1475打点、231盗塁と、ほぼ成績的には同格だ。
にもかかわらず、山本浩二の場合は「チャンスに強い」「彼が打てばチームの雰囲気が変わる」と言われていた一方、衣笠の場合は、そういうイメージがあまりない。
三振の数が、衣笠が1587に対して、山本浩二は1123。
常にフルスイングする衣笠だから、三振も併殺打も多かったイメージはある。
でも、彼は山本浩二同様、広島ファンに愛され続けた。
その理由は、彼の人柄ではなかろうか。
死球を受けても、謝ろうとする投手に対して「いいよ、いいよ」と手で制して何事もなかったかのように1塁に走っていく。
また、近鉄と死闘を演じた1979年の日本シリーズ・第7戦での、いわゆる「江夏の21球」の時の衣笠の江夏に対する言葉も有名だ。
無死満塁のピンチを背負った江夏に対して、広島カープベンチは、急ぎ救援投手の準備をさせる。
それを見た江夏は「何だ、オレが信用できないのか」と怒っているところに、それを察した衣笠が江夏のところに行き、「ベンチなんか気にするな。お前が辞める時は、オレも辞めてやるよ」と言った話だ。
もちろん、江夏と衣笠の仲が良かった、というのも大前提であるが、なかなか言える言葉ではないと思う。
余談だけど・・・
「江夏の21球」について、9回裏無死満塁のピンチから江夏が救援に立った、と誤解している人がいるみたいだけど、実はこの試合で江夏は7回途中からリリーフとして登板しており、当然のことながら無死満塁のピンチを作ったのは江夏自身である。
正確に言うと、江夏-水沼のバッテリーである。
あの時、江夏は先頭打者の羽田に初球をヒットされた。
そして、羽田の代走として出てきたのが、「盗塁を義務付けられた男・藤瀬」である。
当然のように、次打者アーノルドの時に盗塁を敢行し、水沼の悪送球も手伝って、一気に3塁まで進む。
カープバッテリーは、アールノドを敬遠したが、これまた代走で出た吹石(福山雅治の嫁さんである吹石一恵のお父さん)が盗塁を決めたので、無死1・3塁となる。
そのため、次打者の平野も敬遠で歩かせる。
実を言うと、この満塁策が、結果的に江夏がこのピンチをしのいだ要因と言えなくもないな、と当時思っていた。
なぜなら、この平野選手は、もともと「ガッツマン」と呼ばれるほどの熱い男だけど、このシリーズ絶不調で、前の試合までノーヒットだった。
しかし、この試合で初安打となる本塁打を放っていたので、流れとしても非常に厄介な打者だった。
こんな選手と、無死1・3塁で対戦したら、最低でも犠牲フライ、もしかしたら逆転サヨナラ3ランを打たれていたかも知れない。
そんな雰囲気があったからか、実際敬遠された平野は、「勝負せんかい」とばかりに江夏を睨んでいた。
この後のことは、ご存じの通りの展開で、見事ピンチを切り抜けたカープが、初の日本一となる。
その時の立役者江夏を奮起させたのが、この衣笠だったわけである。
以上、衣笠の思い出でした!?
一度でいいから、カープの監督をやってほしかったです。
いずれにしても、「記憶に残る」選手でした。
ご冥福をお祈りします。
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