夕虹が立った。
点滴の管も外され、片方の手首の手術中に入れたまま抜くことができなかった針も医師によって抜かれて、両手がやっと自由になった。
胸には心臓の測定器が、まだぶら下がっている。不整脈の検査をしていると思われる。
山の端にかかった虹を見つけた。
窓は、外側は雨風で汚れている。
そして開かない。
内側から撮るのだけれど、カメラがボロッチ。窓越しの虹となって鮮明でない。
山の向うの虹の足の辺りがちょうど我が家にあたる。
夕方のテレビニュースを見ていると、今日は夕虹が美しかったと画面に。
私が撮ったと全く同じ山だ。
撮った方向が同じだったに違いない。元より比べようとは思わないが、綺麗に映っているし、あらめて夕虹が甦る。
🍒 夕虹に帰心矢のごとわきあがる
🍒 黙々と帰宅の群人秋の虹
🍒 虹の向ふ行きたき町の数知れず
歳時記で虹の項を見る。
☆ ゆけどゆけどゆけども虹をくぐり得ず 高柳重信
☆ 身をそらす虹の絶巓処刑台 高柳重信
高柳重信は前衛俳句の旗手と称された俳人(1923年-1983年)
🍒 ゆきゆけど虹潜ること叶はざる 葉
高柳の >ゆきゆけどゆけども を読む。
<虹をくぐり得ずの斡旋に、私の <虹潜ること が言葉として類想でないかと考えた。
しかしよくよく読むと高柳の句は、虹だけでには非ず、人生そのものを虹に例え、希望、願望全ての将来の見通しが高く険しいものであると詠んでおり、甘くない道程に抱く絶望とも感じられる。
私のようなペイペイの俳句愛好者が、その場で手軽に詠んだ吟行句に <虹潜る 、、、 と云ったとて類想などと、いわれることはないだろう。
高柳のこんな立派な句を知っていたら、ゆきゆけどなんて詠むことはしなかった。
いさぎよく捨ててもよいが、相手にもされないからこのままで。
思い出の句として残しておく。
明後日は退院が出来ると思うと、バストイレ付きの部屋で揚げ膳据え膳のホテルのようであるから主婦にとって天国のような生活。
難は、カロリー計算のされた食事がおせじにも美味しいとは言えないのだ。
日に何回か医師と看護師が訪れて様子を聞いてくれる。
自由になった両手と歩く自由。
しかしテレビも一日中観えるものではない。
持って来た、俳句の本を紐解くしかない。これも飽きる。
ああ、背後霊のような 姫 がいる家が幸せ。
今はパソコンの下の 姫 の席で私を見上げている。