Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

三重、鈴鹿最後のF-1は・・・Ⅲ

2006-10-07 15:58:14 | 日記・エッセイ・コラム

今日より恐れながら3連休、お陰で秋晴れに恵まれた。

昨日より開幕の、三重鈴鹿最後のF-1日本GP、昨日の初日は観衆へのお披露目も兼ねた習熟走行、中日の今日は午前が昨日の引き続き習熟と競技車の仕上がり点検の為のフリー走行、午後はいよいよ明日の決勝出走順位を決めるべく、本予選が行なわれているはずだ。今の予選は以前とは大きく異なり3ラウンドに分れ、R1にて下位6位、R2にて中位6位、そしてR3にて上位の10傑が決まる規程となっている様だ。

見所はやはり、上位の常連フェラーリとルノーのどちらが所謂ポール・ポジションと呼ばれる予選首位を奪うか、もう1つは開幕よりこれまで、奮闘及ばず首位戦線に食い込めないでいるチーム・トヨタと予選下位に甘んじて来た我らがアグリ・ホンダが中位へと上昇のきっかけを摑めるかだろう。この如何により、両団の来季のあり様がある程度は見えて来ると思うがどうだろう。

思えば俺も、前世紀末は時々鈴鹿へと通ったものだ。F-1日本GPへは1990=平成2年と1994=同6年より1997=同9年にかけ観戦へと参っている。又、1998=平成10年秋には、本レースは見なかったものの、閉幕後のタイヤを中心としたテスト走行を見学している。

最初に参った1990=平成2年のレースは、今も印象に焼きついている。何しろ前年来続く、A・プロストとA・セナ・ダシルバ(これが同選手の本名の由)の順位を巡る確執が延々と続いていて、それがレースにどう影響するかをレース愛好者のみならず、一般人をも巻き込んで、注目の的となっていたのだから。

さて当時の決勝、出走直後にフェラーリへと引っ越したプロストとマクラーレンに残ったセナが因縁の接触事故を起こして共に棄権(リタイアメント)。代わって首位を奪ったのがプロストの僚友N・マンセルであった。1987=昭和62年の優勝候補だった同選手は鈴鹿でのF-1日本GP初年に予選事故を起こして重傷を負い、この事が元で同年の優勝タイトルを逃している。首位を行く同選手のフェラーリは最高の美しさを誇っていた。

イタリーの、そしてヨーロッパの誇りたる真紅のフォルム。甲高く、スピード感に溢れたV型12気筒エンジンの気高い走行音は、マンセル選手の意地と闘志と相まって「こいつこそは真の勝者」と誰もが想像した事だろう。が、しかし・・・。

レース中盤、ピット作業を済ませ、本コースに合流しようとしたマンセルは突如不運に見舞われる。ピット・ロード出口付近にて(多分)競技車の駆動系が急に不具合に。そして停止してしまい、現在のルノー、当時のベネトンに乗るN・ピケに首位を攫われる事に。思えば同選手は鈴鹿初年に事故に遭ったマンセルとシリーズ首位を争い、結局逆転にて栄光に輝いた因縁の相手である。又この時点で、ラルース・チームより出場の我らが鈴木亜久里が第3位に浮上している。

レース後半は安定した流れ、結局はピケがそのまま優勝、ピケと同郷にて当時の同僚R・モレノが準優勝、そして我らが亜久里さんが史上初めて日本人として3位初表彰台に駆け登った。又先輩格の中嶋 悟さんもティレルより出場して6位入賞。日本人ドライバー達は、トップ・プロに相応しい、素晴らしい働きをしてくれた良きGPレースであったのを覚えている(以下次回)。

Dscn1663

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秋~スポーツ雑感

2006-10-07 12:45:00 | インポート
昨日までの雨が去り、今日の当地愛知は、お陰様で晴天に恵まれています。気象の気圧配置が冬場に良く見られる西に高気圧、東に低気圧と言う西高東低の形となっている為に、風が強いのが気になる所ではありますが・・・。

さて、秋には色んな形容がありますね。
有名なのが「天高く馬肥ゆる秋」・・・。
芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、そして行楽の秋・・・ですか。
まあ各位、根源的な欲求を、他への危害にならない範囲にて発散して下されば良いのですが。勿論最近社会問題化している飲酒運転に伴う事件事故は論外!北朝鮮の核実験策動と共に、断固排除されるべきであります。

さて今日は、スポーツの秋の事に少し触れて参ります。
恐れながら我国プロ野球のセ・リーグにて、我らが中日ドラゴンズは遂に、リーグ優勝に手が届く所まで漕ぎ着けました。
現状のマジック数は「4」。2位の阪神タイガースが猛追を続けているのはご存知かと思いますが、ここ2試合を雨天にて流した様で、これがどうも中日Dに味方した様な所があるのかなって感じです。地元名古屋での落合監督の胴上げは微妙ですが、見えてきた勝利を確実に手中にして欲しい所です。

そしてもう1つ。名古屋南郊、三重鈴鹿にて昨日より開催中の世界最高のカーレース、F-世界選手権、日本GP。今年は1987=昭和62年秋より当地にて開催(正式には日本GP再開)されてから丁度20年目の記念レースとなります。
F-1日本GPは今を遡る丁度30年前、1976=昭和51年に静岡の富士スピードウェイにて史上初開催、翌年の第2回決勝戦中に、競技車2台による人身事故が発生、残念ながら犠牲者を生じ、これが元でほぼ10年間の中断の後、鈴鹿にて再開され現在に至っています。
高名な俊英ドライバー達による幾多の名勝負が繰広げられ、鈴鹿サーキットの名を世界に知らしめた功績は誠に大きいと思いますが、来秋よりは霊峰富士の麓へと帰郷する事になります。
この開催地変更はレース愛好者の間でも賛否が分かれる所でありますが、私個人は20回を数えた所で丁度良い区切りではと思います。
1つの終わりは又1つの、そして輝かしい伝説の始まり。その区切りに相応しい、素晴らしい予選走行、そして決勝戦たらん事を心より祈ります。
折しもこのレースで首位を争うのはイタリーの名門、チーム・フェラーリ。同団は、鈴鹿の日本GPにおいて、初勝利を挙げた記念すべき栄光の軌跡の持主でもあります。
同団の主戦、M・シューマッハー選手も今季限りの現役引退を表明しています。
形はどうあれ同選手にとり、又全てのチームにとって、この一戦が意義深いものとならん事を、改めて心より願っております。*(野球)**(車)*
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三重、鈴鹿最後のF-1は・・・Ⅱ

2006-10-04 23:18:47 | インポート

コナサン、ミンバンワ!

今月2回目の今夜は、俺が実際に鈴鹿サーキットを訪ねた時の事を少し記そうかと思う。

初めてここを訪れたのは1990=平成2年の春、当時まだカーレースの世界選手権が3つあった頃であった。1つはF-1世界選手権、1つはWRCこと世界ラリー選手権で、近年は大体毎年9月に我国の北海道にて争そわれている。そしてもう1つは1990年代の途中まであったWSPC=世界スポーツ・プロトタイプ選手権。末期はSWC=スポーツカー世界選手権と呼ばれていたと思う。F-1とは異なり、屋根もタイヤを覆うカウルと呼ばれる車体の構成も一般車に近く、ナンバーさえ取れば、一般道の走行も可能。エンジンに関する技術規定もF-1程にはうるさくなく、世界の有力自動車メーカーの技術研鑽の場と言う感が強かった。

当時の優勝候補は、今はマクラーレンとの共闘にてF-1の世界でも優位に立つメルセデス・ベンツ。後はジャガー、我らがトヨタ、それと合衆国の確かヴェンチュリと呼ばれるチームが有力な所だったと思う。

もう15年以上前の記憶にて恐縮なのだが、WSPCは当時、毎春の開幕戦を鈴鹿にて行なっていた様だ。上手くすれば桜の開花と重なり、桜並木の中を行くレースカーの勇姿を捉える事だって可能だった。カメラを持って行ってはいたのだが、これら桜花との組み合わせにトライしなかった事は、今も後悔する事しきりである。

この年の開幕戦、最有力のザウバー・メルセデス・ベンツチームは予選上位につけながら決勝出走に失敗、一時最下位に沈んだものの、その後の的確なピット・ストップ戦略やレース展開の読みが的中し後半に大きく浮上、終盤には首位をも奪回し、そのまま鮮やかに勝利して見せた。その時の強烈な感動の記憶は、今も忘れ得ないものである。

今夜は他のカテゴリーのレース話だったが、次回よりは真面目にF-1の事を記します。

ご容赦!

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無法国家、又も暴言!

2006-10-04 07:53:00 | インポート
お早うございます。今朝の名古屋は曇天。
これから南方の秋雨前線と台風第16号の影響が強まり、今週後半は再び雨模様ではと思われます。

さて昨日の報道にある様に、北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国があろう事か、近い将来核実験をも辞さずとの表明を致しました。極めて深い憤りと反発を覚えます。

これは核疑惑、そして我国を含む複数の外国人拉致問題につき、米合衆国を中心に進められる同国への金融制裁に対し、同国が解除を求めて合衆国を交渉の席に着かせる為の所謂ブラフ=脅しであると言われています。我国も同国に対しては、万景峰92,号に代表される同国籍船舶の寄港を原則禁止とする等の規制を施しています。

折も折、今週末に、着任直後の安倍内閣総理大臣の中華人民共和国、並びに大韓民国訪問が内定しています。内閣も発足直後にて大変な所でしょうが、安倍閣下にはこの問題についても周辺の位置する両国と十分に協議して意思疎通を深め、北朝鮮への自制材料となり得る様、実のある外交行動として下されたく思います。

かつて社会民主党の議員団が「北」を訪問した際、時の党首、土井たか子さんは、初めに謝罪ありきとの態度だったと言われています。確かに先の大戦にては朝鮮半島の方々に、相応の犠牲を生じたのは事実ですが、それはその事への反省にて十分であり、謝罪の必要はありません。こうした愚行はもう繰り返して欲しくありません。
だから我国は「北」からなめられるのです。

安倍閣下はその事を十分ご承知だと思いますが、念の為に、こうした愚行もかつてあった事を披露しておきたく思います。*(日本)*
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三重、鈴鹿最後のF-1は・・

2006-10-01 22:22:31 | インポート

コナサン、ミンパンワ!10月も当ブログをも宜しく願います。

さてさて、毎年10月と言えばモーター・スポーツのビッグ・イベント、F-1世界選手権、日本GPの開催月ですな。思えば我国に初めて世界最高のレース・カー、F-1マシンが姿を現したのは1974=昭和49年。時の総合勝者、E・フィッティパルディ選手以下の精鋭が、静岡の富士スピードウェイにてテスト走行を行なったのが恐らく最初ではないだろうか。

同コースにて2年後の1976=同51年、いよいよ初のF-1日本GPがスタートし、この時は高橋国光、星野一義の両氏を初め、多くの日本人選手がとりあえず同レースだけのスポットにて参戦した様だ。2回目となった翌年、レースカー2台の接触に端を発した遺憾な人身事故によりこの時は取りやめとなり、以後10年を経て時のFIA=国際自動車連盟会長だったJ・M・バレストルさん(フランス出身)の肝煎りにより再開。この時新たに開催地に選ばれたのが鈴鹿サーキットだったのである。再開は1987=昭和62年11月であった。

このコースは1962=昭和37年、我国の自動車交通=モータリゼーション勃興以前にホンダの総帥、故本田宗一郎さんの大英断により開設。同氏は建設に当り、周辺の環境や農業等への影響が少なくて済む様神経をお使いになったと聞いている。それと共に2年後に開始されるホンダF-1活動に備えての、布石の意味もあったのではないだろうか。

区切りとなる、とりあえがの鈴鹿最後のF-1日本GP開催は今週末。更に今シーズンは今月後半まであるので、今月の当欄はこの話題を連載しようかと思う。(以下次回)

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