Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

安全~白と赤の風

2008-08-24 21:31:00 | インポート
うさSAN今晩は。今日は拙日記コメント有難うございます。この所当地は不安定な天候が多く、時雨る事もありますね。昨日午後から今朝までは、久し振りのまとまった雨になりました。ただ、これまでの猛暑からは解放され、朝晩少しはしのぎ易くなったのも事実です。

さて今月の拙特集日記の東海道新幹線、貴女の地元大阪を縦横無尽に駆け巡る優秀な私鉄各線、そして拙地元の名古屋鉄道と、新幹線を別格としても相当な高速にて走行している訳ですが、その陰で地道な安全確保への取組みが行われているのは、あるいはご存じでしょう。

考えたくはないけれど、安全を語る上で、我々は決して忘れてはならない惨劇の記憶がありますね。
そう、2005=平成17年4月、兵庫尼崎のJR福知山線にての、100名を超える犠牲と、550名を超える負傷者を生じた大列車事故であります。
まだ通勤通学の混雑も収まらない9am過ぎ、尼崎へ向かっていた上り列車が大幅な速度超過の為正常な曲線通過をする事なく脱線、沿線の建物に激突して多くの死傷を生ずる結果となりました。一時は列車妨害の可能性も囁かれましたが、結局は速度違反による事が明らかとなりました。

現在の鉄道は、運転者が明白な信号無視などをした場合は数秒で自動ブレーキをかけて列車を停止させ、危険を避ける仕組みになっています。
所謂ATS=自動列車停止装置であります。但し事故当時の福知山線の装置は旧世代のもので、事故原因となった大幅な速度違反に対応したものではなかった様です。
そこで改良された自動列車停止装置では、信号が守られていても速度が著しく高い場合はやはり同様に安全確保の為に動作する仕組みの様です。

この様に安全への取り組みは、言わば「事故との闘い」でもある訳ですね。こうしたシステムは勿論東海道新幹線でも標準的に取り入れられている訳ですが、在来の一般路線であっても、この様な深刻な問題が起これば直ちに改良が加えられて来ている様です。

過日も申した様に、この6月末、私は前述の事故現場へ弔意を表しに行って参りました。場所は福知山線の尼崎とすぐ次の塚本のほぼ中間、塚本駅より徒歩で20分強の所で到着時刻は7pm頃。夏至と言えど暗くなるギリギリのタイミングでありました。件の建物には今も残る衝突痕が車窓からもはっきりと認められ、当時の凄惨さを今に留めておりました。
雨天ではありましたが、現場には今も保安の為に関係各位が詰めていらし、この方々に一礼の後現場に向かい焼香をして参った次第。
許可を得て映像も1枚収めましたので、近く拙写真帖にてお目にかけたく思います。

とに角強く感じたのは、高速化や利便性の向上は良いが、乗客乗員の生命に関わる安全が疎かにされる事があっては断じてならないと言う事でしょう。
聞いた話では、事故現場を守るJRの関係各位には、線路の品質と安全を守る保線の技術を担う方々も多くいらす様です。鉄道の礎とも言える線路の守り手として、この出来事を誰よりも重く受け止めていらっしゃる事でしょう。又、是非そうあって欲しい所です。*(新幹線)*
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想念~白と赤の風

2008-08-21 00:28:00 | インポート
真美さん今晩は。朝晩多少しのぎ易くなったとは言え、まだまだ暑さが続きます。いつも拙日記へのコメントと拙画像掲示板へのご投稿有難うございます。ご病気の療養もあって、私の様に外の写真撮影が中々叶わない様ですが、どうかご無理なく。早いご回復を心よりお祈りする次第です。

所で今月の貴記事拝見して参りました。大胆なタイトルには少し驚きですが、共感する所も多いですね。
特に「誰かのサイズに合わせて、自分を変える事はない。自分を殺す事もない。」の下りは正にその通りだと思います。
「十人十色」の諺がある様に、人にはそれぞれの人格、それぞれの個性がありますよね。お互いにその事を自覚し、尊敬し合えれば良いのだが、中々にそれができない。特に勤務先なんかではそうした問題が多いものです。せめてネットの世界の仲間内ではそうした事のない様に、と切に願っている次第であります。
そうした事で、貴方のご理解を得られれば幸いだと思います。その為に私も、貴方の事を少しでも正しく理解できる様心がけるつもりです。

今月の拙日記にてご紹介している名古屋鉄道パノラマカーは、そうした意味でも色んな情景を私にもたらしてくれました。
様々な車内模様・・・先頭展望席にての幸せそうな親子、そして若い男女・・・
その一方で、特に混み合う時に周囲を顧みず先を争って乗り込もうとする不逞の輩達、車内の作法を無視しての携帯通話や不適当な会話、そして飲食などの挙に出る不心得者達のあり様・・・
そうした一枚のカードの、表と裏の様な世間の縮図を写し取る鏡の様な存在、それがパノラマカーでした。

そう、思えば私にとり、本当に「走る教室」と言った存在だったのです。
一人の大人として、社会の一員として何をすべきか、何をすべきでないか・・・パノラマカーの車窓には、そうした生きるヒント、考える手がかりが沢山あった様に思います。

今夜はとりとめもない記事につき合わせてしまい、どうも相済みませんでした。残暑の折、お互いご健康に・・・。*(新幹線)*


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裏「白と赤の風」Ⅲ

2008-08-17 01:40:22 | 旅行記

コナサン、ミンバンワ!

本日の表日記が名古屋鉄道「パノラマカー」についての回想記事となった為、予告通り拙ブログの今回記事は東海道新幹線の記事を一くされ・・・。

ご存じの通り最高時速270km/Hにて疾走、1日に多い時には山陽新幹線区間と合わせ、実に2000km超の走行距離をこなす超多忙な新幹線車両にも、勿論休日は訪れる。2年毎位の車両を分解全面検査整備する「全般検査」とかほぼ毎年実施する足周りなどの「要部検査」などで数日から数週間整備工場に入場する時がそれ。安全な高速走行の為の重要な検査と共に、当然行われるべき要所の徹底整備と内装の修繕などを兼ねて、車両はこれも必要な休養を取り、次の任務に就くべく飛び出して行くのである。

先月下旬、その新幹線整備の一大拠点であるJR東海・浜松工場にて年に一度の一般公開が催され、普段一般人の立ち入れない工場構内を見学する機会を得た。高速大量輸送システムとしての新幹線に対する世間の関心は大変高く、当日も親子連れを中心に大勢の各位が足を運んでいらした。夏休みの自由研究に同工場の見学を選ぶ子供達も多い事だろう。

新幹線車両の車体上回りと足周りを一体に戻す構内クレーンを使っての所謂「車入れ」の迫真の実演を拝見したり、整備に入った新幹線編成を間近に見られたり有意義な1日ではあったが、工場構内には既に現役を退いた以前の新幹線車両も何台か見受けられた。

これらは恐らく、数年後に公開が予定されるJR東海博物館にての展示に備え保管されているものと思われる。今回はその内、1985=昭和60年より2003=平成15年まで東海道新幹線にて活躍し、現在も山陽新幹線にて現役を守る100系車両をお目にかけたい。今はまだ構想中の同博物館だが、どの様な施設となるか、開館が今から楽しみではある。

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回想~白と赤の風

2008-08-17 00:59:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!

拙実家の雑用にて3日程留守をしておりました。昨夜拙生地の東三河よりお陰様で無事戻り、拙記事を綴っております。今夏の特集日記は、又もや拙趣味の鉄道交通絡みとなってしまい些か恐縮なのですが、懲りずにお付き合い下さればと思います。苦笑

さて前回の予告通り、今夜と次回は今年6月末と7月初にも取り上げた当地の大私鉄、名古屋鉄道の千両役者と謳われた名物電車「パノラマカー」に関する思い出を綴って参りたく思います。片や「白の風」が東海道新幹線、もう片や「赤の風」は何を隠そう、パノラマカーの事であります。
1961=昭和36年夏の初登場以来瞬く間に名古屋鉄道の主戦の座に駆け上り、以後15年間に亘って勢力拡大を続けて、豊橋~名古屋と岐阜を結ぶ名古屋本線は元より後に名古屋都心と中部国際空港の連絡線へと飛躍する常滑(とこなめ)線や中部の有名観光地を沿線に持つ犬山線、三河湾への主要ルートである西尾線や豊川稲荷の参拝で正月は特に賑わう豊川線などの王者として、実に半世紀近くの長きに亘り君臨して参りました。

パノラマカー独創の展望座席。運転台の高層化により実現したこの眺めは、真紅の外装と共に地元のユーザー各位は元より遠方よりの観光客各位にも大いに人気を博し、混雑時は座席確保も一苦労だった様です。後年、混雑を避けたい旅客の要望を入れて全座席指定便も設定される様になります。今の「ミュー特別席」の前身に当ります。
それとこの車両の存在感を高め、独特の地位に押し上げたもう1つが世界的にも珍しい音楽警笛、所謂ミュージック・ホーンだったのではないかとは良く指摘される所。賛否はあれどあの「ミ・ド・ラ」の音階にて始まる警音の調べは誠にユーモラスで、愛好者も多い様です。

既に触れましたが、パノラマカーこと7000型電車は高い走行性能実現の為、全車両が電気モーター動力を持つ全電動車、所謂オールM編成にて構成されます。更に名古屋鉄道の車両では初めて衝撃吸収に優れた空気バネ=エアサンペンションを全面採用し、安全性を重視して前灯は4個とされ、内窓下の2個は色フィルターを使う事によって尾灯と兼用するスタイルです。
これらの技術は勿論、東海道新幹線にても採用されましたが空気バネ以外の2点は、実は新幹線よりも早く実用化されていた訳ですね。
思えばパノラマカーは新幹線にとり、ある意味「偉大な先輩」でもあったのではないでしょうか。
正面に目を向ければこちらも紛れもない流線型。速度レベルの違いから展望席こそ叶いませんでしたが新幹線もその誕生の過程において、パノラマカーより学ぶ事もきっとあったのでは、と私は想像しています。

この車両の展望席・・・過日も申しましたが私にとっても幼少時よりの多くの思い出の載った大切な場所でありますね。勿論空席があれぱの話ですが、折々良く乗って流れる眺望に興じたものです。
車体の更新改造などによる除籍は昭和の末頃よりありましたが、本格引退の方針が明らかになったのは1998=平成10年の事。今から丁度10年前の事で、当初は「嘘だろう」と俄かには受け入れ難い話だったのを覚えています。何しろ高年式車の増備が終わってからまだ20余年。十分に余命を残しながらの表明だった事も一つにはありますね。ただ問題は、車内サービス優先の結果としての輸送力の心もとなさでした。

これも過日記した様に、パノラマカーの基本編成は先頭2、中間4の計6両ですが、この編成でもラッシュ時に向いた通勤車両の4両分程度で、かつ乗降扉が片側2カ所のみの為乗降に時間を要し、定時運転の面でも不安を残す事となりました。
又走行性に優れた全電動車式の足周りも結果的に多くの電力を要して最近の省エネルギーの流れにそぐわない形となり、これらの事共に加えて特に初期の低年式車両では車体の断熱に健康被害を及ぼすアスベストの使用が指摘され、結果「引退やむなし」の結論に至った様です。

引退廃車は今世紀に入ってから特に加速した様で、計200両を超える大勢力を誇ったパノラマカーも昨年春には約1/4まで減少、遂に今夏には主戦の座を降り、一部の普通列車を中心に、予備役としての任務を残すのみとなっています。
「最後の1年」と言われる今、これまでの栄光の軌跡を讃え、一礼を申すと共に残り数隊となったパノラマカーの「有終の美」を今、心より祈っている所であります。*(新幹線)*

(ご案内)下記アドレスのクリックにて、名古屋鉄道パノラマカー独創の音楽警音をお聞き頂く事ができます。
http://jp.youtube.com/watch?v=MzaSt3-3KcM

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模様~白と赤の風

2008-08-12 23:37:00 | インポート
だーSAN今晩は。今日は久し振りのコメント有難うございます。今夜の拙記事は、勝手ながら貴方宛ての伝言調とさせて頂いております。
今月記事は、我が身近な憧れである東海道新幹線に関する雑感と、今夏主戦の座を降りた名古屋鉄道の名物電車「パノラマカー」の思い出話を軸に進めようと思っております。

前回まででは、主に東海道新幹線誕生の経緯に触れて参りましたが、今夜は東海道新幹線を走った列車々両の事を少し記せればと思います。
東海道新幹線と言えば、まず思い出されるのが初代車両0系ではないでしょうか。
1964=昭和39年の初登場以来実に20年以上に亘り生産され、11年目の1975=同50年春よりは行動範囲を九州博多へと広げ、本当に東奔西走の日々でした。
あたかも地上に舞い降りた飛行機が翼を脱いだ様な明快な表情。当時200km/H超で速く走るにはこの形しかない、と思わせる程の説得力だったのを覚えています。
それでいて車内は速度を上げてもあくまで静か。低い声での会話も十分にでき、それまでの列車とは段違いの居住性でした。座席は当初の1等が完全なリクライニング席、2等は最初、方向のみ換えられる転換式で、後に簡易リクライニング席に更新されたと記憶しています。この席は3列側が向きを換えられず、前後の席が半々の割合で反対側を向く集団離反式と呼ばれる配列でありました。
白を基調とし、窓周りと裾にコバルト・ブルーと呼ばれる清澄な青を配した鮮烈でスピード感溢れる外装も、0系が最初でした。
尤も外部面をも考えると、負の側面がなかった訳ではありません。
高速時の風切り音が大きく、特にトンネルや市街地などでその影響が大きかった様です。当地名古屋は東京周辺と異なり、市街地での速度制限の適用から漏れた為、この音が周辺に悪影響を及ぼし、有名な新幹線騒音公害問題を生じてしまいました。
当時、1970=昭和45年頃は高度成長時代。何よりも速度と効率が優先されました。だーSANが良くご存じの車の世界でも大変革がありましたよね。
そう、東名・名神の両道路に代表される高速自動車国道が本格的に整備され、全国へと延びて行った時期でもあります。
その様な中である程度予想された事とは言え、沿線住民の平穏な生活を脅かすこの様な事態があった事は遺憾であり、乗り物愛好者の私としても、良く覚えておく必要があると思うのです。東京地区での速度規制を、多少所要時間が増しても名古屋でも適用すべきだったでしょう。
戦争と平和の歴史を語る時もそうですが、物事は1枚のカードの表と裏なんですね。やはりそうした負の事共にも目を向けるべきと改めて思っている所です。

1985=昭和60年には0系の後継車、100系が出現。この車両は0系の良き印象を受け継ぎながら車内の居住性をより改善、0系ではできなかったリクライニング式普通席の3列側の方向転換を可能にしています。
又、編成の中間に位置する旧1等のグリーン車と当時あった食堂車を2階式として眺望を確保、階下にはプライバシー優先の個室と食道の厨房が設備されていたとされます。
再び速度、効率が優先され始めた最近の新幹線にも是非再び採用願いたい楽しい空間だったと思います。

平成期に入ると、現在も快走を続ける最新の顔ぶれが姿を現します。
1992=平成4年に東海道路線で初めて270km/H走行を実現した初代「のぞみ」の300系、JR西日本独創のグレー基調の外観にてスピード感溢れる500系(1997=同9年登場)、速さと居住性の両立を目指した700系(1999=同11年登場)、そして昨夏登場した最初の21世紀モデルN700系、と魅力の精鋭が続く訳ですね。

ちと残念な食堂車の廃止、物議を醸す全面禁煙席化など、今後へ向けて議論検討すべき課題も多い新幹線の車両ですが、速度と安全の両性能はモデル・チェンジ毎に確実に進歩している様です。
新しい車両では、0系の頃より前端のノーズ部分が延び、高さが低くなっている様に見受けられます。
空を飛ぶ飛行機と地上を高速で走るF-1レース・カーの前頭形状が異なる様に、新幹線も時を経るにつれ、地上をより速く、静かに走れる様適応力を磨いて来たと言う事でしょう。

新しいN700系の快進撃と、今後どんな魅力の車両が現れるか、大いに注目して参りたく思います。

P.S 次回は8/16(土)~に掲載します。次回から少しの間、過日も触れた名古屋鉄道「パノラマカー」の記事を載せる予定です。*(新幹線)*

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