Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

裏「白と赤の風」Ⅱ

2008-08-11 00:57:32 | 日記・エッセイ・コラム

コナサン、ミンバンワ!日付が変わって月曜日となってしまったが、表題2回目を記させて頂く。開催中の北京五輪、女子がダメなら男子柔道と言わぬばかりに、内柴正人選手が初の金メダルを決めてくれた。鮮やかな一本勝負「まだまだ、日本も捨てたもんじゃない」と言う感じか。これで今日以降も少しは希望が持てる様になった・・・かな。内柴選手に一礼。

さて本題。前回に続き、名古屋鉄道「パノラマカー」の雑感を。一昨日、夏休み向け企画の第一弾として、往年の名称列車が久し振りに名鉄本線を挟み、津島・西尾の両線にて運行された。我々には懐かしい「三河湾号」で本来は指定席特急列車の名称だった。今回は快速急行列車としての運行だったが、同鉄道公式HPにても紹介されたせいか当日は大混雑。名古屋駅にては積み残し発生との情報も聞いた。こう言う臨時運転の場合、走行シーン撮影も乗車も事前の情報が大切であるのは事実だが、パノラマカーの場合基本運用情報が公式HPにて公表されているので、記録を残される方はご参照を。但し読み難いPDFによる表示なので、出かける時は印刷を取るべきだろう。

因みに俺は、一昨日岐阜の悪友と安城市内にてこの列車の撮影を行ったが、岐路夕刻の豊明市内での上り列車を、この時刻読み違えの為捕捉し損じている。印刷携行を怠った為で、次回に向けての反省点となりそうだ。次は今月末、岐阜県下の各務原・広見の両線にて一般車特急としての運行を予定。今度こそ失敗なき様周到な準備を心がけないとー・・・。

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経緯~白と赤の風

2008-08-10 17:34:00 | インポート
2008=平成20年も早立秋の時期となりましたが未だ盛夏の猛暑ただ中の当地名古屋です。

西の甲子園球場にては、夏の全国高校野球大会が熱戦中。地元勢同士となった兵庫の報徳、奈良の智弁両学園の熱戦は途中からですが拝見しました。大変濃い試合だった様ですね。
対照的なのが北京五輪。昨日の女子柔道、谷 亮子選手の金メダル捕逸もさる事ながら男女サッカー戦の拙攻が祟り、もう余り関心が持てないでいます。谷選手は攻めが淡白だったのではとの批判も聞きますが、既婚となり母となった、これまでとは人間的立場が大きく違う事を考えれば、金逃しを同じ気分で揶揄するのは酷と言うものではないでしょうか。それよりも非難されるべきはサッカー勢の不甲斐なさでしょう。
体操や水泳の各競技でも不安材料が生じている様で、このまま行くとメダル続出との当初の希望的観測は揺らがざるを得ないと私は見ています。
何よりも、国内地方にての政情不安を抱えたまま開会を強行した中華人民共和国当局の姿勢には疑問を感じます。果たしてこれが本当に「平和の祭典」と言えるのか?と言う事ですね。

さて話を本題の線路上に戻します。
前回の東海道新幹線出生の経緯について触れた中、年代の認識に誤りがありました。まずは失礼致しました。
東海道新幹線の建設計画決定は、実は東海道線在来線の電化開業と同年の1956=昭和31年で、起工年が1959=同34年でした。尤もこの内静岡県下の日本坂トンネルについては、1943=同18年頃には既に貫通していた旧鉄道省による所謂「弾丸列車」向けのそれを転用する形で完成している様です。
起工から開通まで6年足らず。東海道新幹線の用地取得から工事完成にかけても、色々な曲折があった様ですね。
本当に遠い記憶なんですが、小学校高学年の頃でしょうか、父より誕生祝いに贈られた「世界一の新幹線」と言う本にて、この辺りの経緯は一通り読んだ記憶がありますね。

東海道新幹線はご存じの様に1964=昭和39年10月、東京と大阪梅田北方の新大阪を結ぶべく、初開通を遂げています。線路の実質全長は約515km。運賃の計算などに要する営業距離約552km。
軌間と呼ばれる線路幅1435mm、電力方式は単相交流25000V、電気周波数60Hz、走行車両の原則全長25m、本線の基本最小カーブ2000m、現行最高速度270km/Hと言った所が、私の知る限りの基本データでしょうか。
走行する列車は、その全てが特急列車。当然普通乗車券に加えて距離に応じた特急料金を要し、更に運賃体系も当初1&2等の等級制を採っていました。これは大阪万国博覧会直前の1969=昭和44年の運賃制度見直しによって普通運賃が統一され、旧1等車は別途特別料金を要する所謂グリーン車に変更されて現在に至ります。

路線設定に伴う用地取得や停車駅の選定にも関係各位は苦労された様です。
予定線の地主各位との交渉は大変難しく、停車駅の問題とも絡んで中には地主の方が怒ってしまい、膠着を余儀なくされた所もあった模様。又詳細は割愛しますが、駅の設置にも様々な難しさがあった様です。
何よりも、今までにない初物である事が沿線の方々の理解を難しくしていた事は、愚か者の私にも何となく理解できるものがあると言う感じがします。

所要時間の設定には慎重が期され、1964=昭和39年10/1の開業後1年間は速達列車「ひかり」が東京~新大阪間を4時間、主要駅に全て停まる「こだま」が同区間を5時間と言う運行計画でスタートし、翌1965=同40年秋より後年良く知られる「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間の運行に移行しています。これ又初物の自動列車制御装置ATCや有事の場合に速やかに停止させる自動列車停止装置ATSの信頼性、安定性を見極める必要があったのでしょう。
この両装置は次第に熟成を重ねて今では全国の新幹線は勿論、在来線の大半にも採用され、特に後者のATSは事実上義務づけとなっている様です。

思えば新幹線と言う高速鉄道への取り組みが、結局は全国の鉄道線の安全性を高め、踏切事故を含めた凄惨な悲劇の減少に貢献した事は明らかでしょう。
又新幹線の技術は、ともすれば戦後の我国に安易な形で取り入れられ、結果として環境破壊や地元の不利益を招いた米合衆国の主に都市部の開発手法、所謂アメリカン・モデルとも一線を画するものであります。
戦後の我国独自の知恵と手法にて完成された輸送システムである事に、私は限りない畏敬の念を覚えるのであります。*(新幹線)*



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歴史~白と赤の風

2008-08-06 07:52:00 | インポート
各位お早うございます。今日「広島原爆の日」の当地の今朝は曇り。「降る降る」と言われながら空振りに終わる事の多い降雨予報が今度こそは当たるのでしょうか。いい加減に「狼少年」はやめにして欲しい所でもありますね。折しも昨日、東京都内にて鉄砲水が発生、下水道改修に当たっていた関係各位数名が流され犠牲となりました。まずは一言、ご冥福をお祈りしたく思います。

その広島原爆の日。1945=昭和20年のこの日、米合衆国軍の投じた一発のウラニウム型原子爆弾が、一瞬で20万を超える広島の方々の命を消し去った悪夢の記憶として、永遠に留め置く必要があるでしょう。原因究明、そして再発防止への心がけも大切ですが、同時に九死に一生を得ながら今も、そして最期まで後遺症に苦しみ続けた方々の事も忘れてはならないと思いますね。
後朗報として、一昨日は当地プロ野球々団、中日ドラゴンズの山本昌広投手が史上最年長での200勝投手に輝きました。
この栄誉を心よりお祝い申すと共に、当日の勝利に貢献した中村紀洋内野手の果敢な援護も讃えたい所です。それにしても同球団の制服は白地に青の紋章。東海道新幹線の外装とまんま同じと言うのは、単なる偶然でしょうか?

さて本題に入ります。新幹線と言えば、世界的な動きである鉄道の高速化と不可分の関係である訳です。
ご存じとは思いますが、我国の鉄道の初開通は1872=明治5年の事。この当時は私見ではスピードよりも大量輸送が重視されていた感があり、明治政府もその様な方針だったのではと思っている所です。
技術面では「鉄道総本家」とも言える英国の技術が取り入れられ、軌間と言われる線路の幅は、当時英国が遠方の植民地を開発する目的で敷設を進めていた狭い3フィート6インチ、約1067mm幅のものがそのまま採用されました。この選択はその後、山間や狭い海沿いに路線が伸ばされた事を考えると、まず正しかったと考えるのは私一人ではないと思います。

但し線路幅が狭い事は、カーブと呼ばれる曲線を中心に速度が大きく規制されると共に列車の車体を大きく取る事ができず、輸送力も制限を受けます。その為我国の進展と共に、線路幅を広げて輸送力を増大すべき、との主張が勢いを得る事となります。
この事は、カーブの箇所を減らすべく、トンネルの箇所が増えて線路の防衛上も有利な事から、戦前国策にも大きな発言力を有した軍部の支持も得られ、幾度か実現へと向かいましたが財務当局の抵抗もあり、又戦前最後のチャンスとも言えた先の大戦中も戦局の悪化に伴い、実現には至りませんでした。

この高速鉄道が難産の末実現の機運に至るにはやはり戦後。在来の東海道線の輸送力が上限に達する1950年代、即ち昭和20年代の終わり頃からだったのです。
1956=昭和31年11月、東海道線は長年の悲願だった電車や電気機関車の運転を可能とする所謂電化開業を成し遂げます。電力方式は直流1500V。
大規模な変電所など地上設備の大きな投資を要する代わりに電力や電流の性質は極めて安定し、高い頻度で多くの列車を運転する形態に適しているとされます。電車、機関車の車両コストを比較的安くし得る強みもありますね。

こうして東海道線は、東京~大阪間約550km強を戦前の最速記録8時間を30分短縮する7時間半で結び、高速化へ一歩を踏み出します。
1958=同33年秋には初の本格的な長距離特急電車「こだま」が出現。東京~大阪間を電化当初より更に1時間縮める6時間半とし、この2大都市の日帰り圏化への希望が見え始めます。
しかしその希望を脅かし始めていたのが、東海道線の輸送過密化でありました。全線電化の影響もあって一気に密度の上がった同線の線路は次第に容量の余裕を失い、電化よりわずか4年後の1960=昭和35年には全く列車増発のできない限界に達します。

勿論当時の政府運輸当局や実施主体の日本国有鉄道はある程度こうした事態を見越して、限界に達する数年前にはどんな形にせよ、東海道新線の建設を構想していたとされます。尤も新線建設の形態には少なくとも2通りあって、在来の東海道線を狭い線路幅のまま増設する。つまり複々線化して特急などの高速列車とそれ以外の列車とを別個に通す案と、線路幅をも広くした全くの新鉄道を通す案とが併存した様です。
電気技術の進歩などもあって次第に後者への意思統一が図られ、遂に東京~大阪間、厳密には新大阪間で今までの我国にはなかった新鉄道の建設が決せられたのでした。確か1959=昭和34年の事だったと記憶しています。
*(新幹線)*
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裏「白と赤の風」Ⅰ

2008-08-03 23:37:58 | 旅行記

コナサン、ミンバンワ!2008=平成20年8月も拙ブログを宜しくお願いします。

毎夏恒例の8月のCafe表特集日記、今年は題材をどうするか梅雨の頃よりあれこれ考えていたのだが、今夏のそれは幼少時よりの身近な憧れである東海道新幹線と、今夏前長年の主戦を降板したこれも幼少時よりのお馴染み、名古屋鉄道パノラマカーにまつわる雑感を綴ってみる事にした。

1961=昭和36年夏の初走行以来実に半世紀近くも名古屋鉄道の看板車種として君臨した同車も1975=同50年の最終落成車でも最早車齢30年を超えて終焉期。同時期にデビューしたJRや他の大手私鉄の主力車両はその大半が既に引退。ライバル達の最期を見送ったパノラマカーもさすがに今世紀に入っては本格的に勢力後退し、今春までに全盛期の約2割にまで減少していた。

名古屋鉄道HPにても紹介されている様に、今夏以降来年度にかけて4両編成3隊、計12両の残留が確実となっているが、今月初時点ではこの他に第1編成(7001~7002)の4両と、最後の6両編成となった第4編成(7007~7008)が残っていると言われる。恐らくは検査期限に残り日数があり、主力となった後輩車種に、事故などの不測の事態が生じた時の代走予備として残されているのだろう。

予備編成は、2chの鉄道関係掲示板への書き込みなどでその動向を追う事もできるが、確実な捕捉は難しい。それでも当日午後や翌日の予測が当たる事もあるので、ご興味があれば注視しておかれると良いだろう。因みに先月は7/13(日)日中の津島線乗り入れなどを予測し見事的中させている。画像はその折のものであります。今回の最後に、名古屋鉄道公式HPのアドレスをご案内しておきます。http://www.meitetsu.co.jp/

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前記~白と赤の風

2008-08-03 22:42:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!2008=平成20年8月も、拙日記を宜しくお願い致します。

今年の8月、当地名古屋は未曾有の酷暑に見舞われています。連日最高気温は30℃代後半。全国でも1、2を争う高温です。この暑さは夜間でも収まらず、こちらも最低気温25℃以上の熱帯夜が続きます。さすがの私も体調が不安となり、一応夏風邪には用心している所。又この所の暑さで水難事故も多く、全国にて既に2桁の犠牲を生じているのは遺憾です。
集中力の維持が難しいのは分かりますが、どうか後1か月、お互いご健康に、そしてご安全に・・・。

前置きが長くなりましたが、ここらで本題に入ります。今夏の特集日記々事をどうするか、梅雨の頃より思案して参りましたが、今回は自身にとっての身近な憧れたる高速鉄道新幹線、特に東海道新幹線についての雑感を綴って参ろうかと思います。
思えば1964=昭和39年秋に東京~新大阪間の初開通を果たしてから今秋で45年目に入る新幹線。名実共に太平洋ベルト地帯の人的移動の大動脈へと成長し、基本運転だけで1時間に実に12往復もの列車が走っています。
各列車の定員は約1300名。季節や時間帯にもよりますが、各列車の乗車率が8割だったと見積もっても、1時間に実に2万を超える方々が、東海道を高速移動されているのです。
しかも開通以来40年超、特殊な例外を除き人身事故は1件もなく、極めて安全に運行されて来たのは歴史的快挙と申して良いと強く思いますね。勿論冬季の降雪時などの遅れ対策とかの大きな課題があるのも事実ですが。

限られた文面ではありますが、初開通以来の初代車両が檜舞台を去ろうとしていたり、又戦前の「弾丸列車」を現実のものとした高速車両が東京~新大阪間での使命を終えようとするなど、車両の世代交代も進む東海道新幹線の事共に、少しでも踏み込めたらなどと思っている所です。

世代交代と言えばもう一つ、私にとっては節目と言える出来事がありましたね。
この6月末、当地愛知と岐阜の大私鉄、名古屋鉄道の千両役者と言われた展望式名物電車「パノラマカー」が実に半世紀近くに亘る主戦の座を遂に降板、新鋭達に後を託し、後見人とも言える予備役に退く事となりました。
数多くの汽車、電車の中でもこのパノラマカーは私にとり、幼少時より中年を過ぎた今まで慣れ親しんだ身近な勇者。
今月の特集日記にては、こちらも新幹線の事と併せ、感謝と惜別の言葉でも載せられたらとも思います。

まずはご案内まで。次回は東海道新幹線出生の経緯について触れたく思います。
P.S 今月の特集日記は、新幹線の記事日の拙ブログ「トイレの雑記帳」にては名古屋鉄道パノラマカーの記事を、パノラマカーの日記々事日にては、逆に拙ブログにて新幹線記事をご紹介する事とします。又、今月末より来月初の完成を予定している拙写真帖次回作も、これらの事共を題材にまとめるつもりであります。*(新幹線)*

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