むかし小学校だか中学校だかの教室で「人間は考える葦である」という哲学のコトバを習ったが、その時クラス中の生徒は「ふーんなぁるほど」と頷いたものである。
それを教える先生も、何か大変な真理定理のひとかたまりを説いてくれるような厳かな顔をして言うものだから、生徒の方も実に納得し「うーむそうであったか」「そうであろう」「本当にそのとおりだ」「そうだろうと思った」というような顔をして、シッカリ学びとったつもりだった。
それから人生の幾年月、思いがけない日々の折々にこの「考える葦」の語句や悟りを聞いたり見たりし、そのたびに「うんうんあのことね、もうそのあたりの初級的哲学はよくわかってるけんね」
と軽く余裕を持って大人の頷きを繰り返してきたもんだ。
ところが最近になってよく考えてみると、どうして人間は「考える葦」であるのか、本当に正直に言うとあまりよく分かっていない、ということに気がついたのである。
だいたい「考える葦」と言われた時、葦とはいったいどんなものであるか、子供であったアタクシはよく分かっていなかったのだ。
ヨシという丈の長い草は知ってたが、先生は違う、と言ってた。
「ヨシではなくアシですよ」似てるけど違う、と言うのでそれはメソポタミアとかに生えてるヨシに似てるけど、もっと偉い立派な哲学的な草なのだろうと思った。
しかしそんな草がモノを考えるのだろうか?
むしろ人間は「考える足」のようなものではないか…と思う。
終日一生ペタペタとうろつき回って、何かろくでもないことを考える「思考する足」と思ってしまったほうが、人生がはるかに楽しいような気がするのだが。
と、このようなことを思いつつ葦とヨシはどう違うのだろうかと調べたら、ヨシは葦(アシ…悪し)と同音なのを嫌った忌み言葉でアシと同じだということだ。
そうか、先生もスッカリとは分かっていなかったのだ。
理解してたような、してなかったような哲学的お言葉がこれで少しは解決したようだ。
よかったですね。
それを教える先生も、何か大変な真理定理のひとかたまりを説いてくれるような厳かな顔をして言うものだから、生徒の方も実に納得し「うーむそうであったか」「そうであろう」「本当にそのとおりだ」「そうだろうと思った」というような顔をして、シッカリ学びとったつもりだった。
それから人生の幾年月、思いがけない日々の折々にこの「考える葦」の語句や悟りを聞いたり見たりし、そのたびに「うんうんあのことね、もうそのあたりの初級的哲学はよくわかってるけんね」
と軽く余裕を持って大人の頷きを繰り返してきたもんだ。
ところが最近になってよく考えてみると、どうして人間は「考える葦」であるのか、本当に正直に言うとあまりよく分かっていない、ということに気がついたのである。
だいたい「考える葦」と言われた時、葦とはいったいどんなものであるか、子供であったアタクシはよく分かっていなかったのだ。
ヨシという丈の長い草は知ってたが、先生は違う、と言ってた。
「ヨシではなくアシですよ」似てるけど違う、と言うのでそれはメソポタミアとかに生えてるヨシに似てるけど、もっと偉い立派な哲学的な草なのだろうと思った。
しかしそんな草がモノを考えるのだろうか?
むしろ人間は「考える足」のようなものではないか…と思う。
終日一生ペタペタとうろつき回って、何かろくでもないことを考える「思考する足」と思ってしまったほうが、人生がはるかに楽しいような気がするのだが。
と、このようなことを思いつつ葦とヨシはどう違うのだろうかと調べたら、ヨシは葦(アシ…悪し)と同音なのを嫌った忌み言葉でアシと同じだということだ。
そうか、先生もスッカリとは分かっていなかったのだ。
理解してたような、してなかったような哲学的お言葉がこれで少しは解決したようだ。
よかったですね。