島根に旅行に行ったとします。
せっかく島根に来たのだから、その土地の名物をたべたい。
と誰もがそう思う。
島根の名物は何か。
やっぱり「出雲そば」でしょう。
そこで「出雲そば」の看板を探して街を歩く。
「出雲そば」の看板を発見して出雲そばを食べる。
出雲で食べる出雲そばは一段と美味しい。
「あーやっぱり出雲で食べる出雲そばは旨いなあ」と思う。
出雲は島根県東部の昔の国名。
いま食べたそばが「出雲そば」
これが「島根そば」だったらどうだったろう。
例えば「長崎チャンポン」
いきなり県名、堂々の県名。
長崎県には全国的に名の通った雲仙岳があり雲仙温泉という観光地もある。
「長崎チャンポン」より「雲仙チャンポン」のほうが通りがよかったはずなのに、何故か「長崎チャンポン」。
だから「出雲そば」が」「島根そば」ということもありうることになる。
その場合、島根県で食べる島根そばは一段と旨いなあ、という心境になるでしょうか。
出雲そばという名前だからこそ美味しい。
出雲そばという名前に釣られて美味しい。
こういう例はほかにもある。
「讃岐うどん」。
小中学校の教科書的立場からいうと、「香川うどん」である。
「越前ガニ」。
越前は福井県の旧国名だから「福井ガニ」もあるはずだ。
封建時代の名前を民主主義の時代に持ち込むのはいかがなものか。
と言う学者がいてもおかしくないのに、いまだに越前ガニ。
「サッポロラーメン」がもし「北海道ラーメン」という名前だったら美味しくなさそう、という人は多いだろう。
「サッポロ」だから「美味しそう」ということになる。
同じものを食べているのに名前だけでこんなに「美味しそう」が違ってくる不思議。
人間の心理の奥底には、無意識に日常生活を過ごしているが、脳活動の9割は無意識に行動しているそうだ。
いや待てよ、ひょっとしたら「出雲そば」や「讃岐うどん」、「越前ガニ」も無意識なうちに慣れ親しんでしまっているのかもしれない。