荒神谷公園の藤
自分は片付けが苦手である。
片づけなくてはと思いつつ、汚部屋で暮らしている。
何でも先延ばしにしようとする性格の人間には毅然とした人、例えば事業仕分けで活躍した蓮舫議員のような人に家に来てもらい、厳しくチェックしてもらわないとダメなのかもしれない。
厳しい仕分け人が来て、怠け者を叱咤してくれたらどんなにいいだろう。
「どうしたんです、処分するはずじゃなかったんですか」
「そのつもりだったんですけど…」
「それなのにどうして、今、この引き出しに入っているんですか、おかしいじゃないですか」
「まだ着られるから…」
「でもこの服は、5年間全く着てませんね、体形だって変わっているし、ウェストだってきついはずですよ」
「でもやせたら何とか…」
「本当にやせる気があるんですか、やせる体操のDVDが棚の上でほこりをかぶっているのも調査済みですよ」
こんなふうに、ぐいぐい突っ込まれたら何も反論できない。
それと同時に処分するのに迷っていた物を、すべて手放す気にもなる。
もう白旗を掲げるしかない。
ちょっと怖いけど来てほしい、なんて思うのでした。
近所の公園
野に咲く花
花壇に咲く花
緊急事態宣言は延長か❓
20代とおぼしき若い女性が、コンビニの出入口の前に置いてある灰皿の前でタバコを吸っていた。
最近は若い女性の喫煙者も多いのか、と思いつつふと見ると、彼女のお腹が前に大きくせり出している。
明らかに妊婦なのだ。
医者からは飲酒、喫煙はいけないと言われているだろうにである。
普段はいくら吸おうと彼女の勝手だが、自分一人の身体ではないのだから、妊娠中くらいは我慢すればいいのに。
と、こちらは考えるのだが、母親としての自覚よりも、自分の楽しみ方を優先しているようだった。
苦渋の決断で、あらゆるイベントやスポーツ大会の中止が伝えられるが、パチンコに興ずる人もいる。
タバコはやめろ、パチンコをするな。
と言いたいのだが、「自分たちのやり方に文句を言うな」と反撃してくるだろう。
目に余る行動、恥ずかしくないのだろうか❓
風に飛ばされて子孫を残す
コロナも風に飛ばされて、遠い彼方へ消えてもらいたいものだ。
TVで時代劇の新番組をほとんど見なくなって久しいが、近ごろNHKが土曜日の夕方6時05分から雲切仁左衛門シリーズを放送するようになって嬉しい。
実は時代劇ファンなんです。
水戸黄門や大岡越前、鬼平犯科帳や必殺仕事人シリーズなど欠かさず見てた。
早速本を購入
ゴールデンウイークは読書かな。
ビールをグラスに注ぐと必ず泡がでる。
出ると、どうしたって泡に目が行く。
グラスの中に泡が立ち昇っていく光景はこれまで何千回、何万回と見ているはずで、珍しいわけでも何でもないのだが。
それでも黙ってそれをじっと見つめているひとときがある。
確かめて、少しでも泡が立ち昇っているとそれで安心する。
陶器のジョッキとか銅製のジョッキや錫製のジョッキをときどき見かけるが、そのたぐいのジョッキはいけません。
泡の様子を見ようと思っても中が見えない。
やっぱりガラスのジョッキでビールを飲みながら、常に中の様子を知りたい。
ガラスのジョッキで飲んでいても、少しづつ泡が減っていくのは寂しい。
ビールは泡と共に飲んでこそおいしい。
鉄は熱いうちに打て。
ビールは泡のあるうちに飲め。
ところがいるんですね、ビールの泡に何の関心もない人が。
グラスに注がずに缶に直接口をつけて飲む人
小瓶をラッパ飲みする人。
こういう飲み方をする人は、一度もビールの泡を見たことがないことになる。
個人的なことで恐縮ですが、缶ビールを飲むときも缶から直ではなく、グラスに移してから飲むようにしている。
だって泡あってこそのビールですからね。
4月になると、小学校の新一年生が自分の身体の半分くらいもありそうな、大きなランドセルを背負って登校するようになる。
小学校にあがる子供や孫を持っている人たちにとっては、何よりもうれしいことだろう。
今頃のランドセルは、小さな身体に負担がかからないように、背中に当たる部分に工夫が施されていたり、学校で配られるプリントのファイルが入るように大きさが改良されたりと、ランドセルも進化しているようだ。
しかし自分が子供のころは、ランドセルを背負うのはせいぜい4年生くらいまでと、子供たちのなかでは暗黙の了解があった。
5年生になると自分たちはお兄さん、お姉さんなのだから、もうランドセルなんか背負わないと男子は布製の肩掛け、女子は手さげ鞄などで登校していた。
還暦すぎたようオッサンにも、鼻たれ小僧の時代があった。
小学校入学を控えたある日、親がランドセルを準備してくれた。
つやつやに光ってぷっくりと膨らんだ形のランドセルを期待していたが…
自分の目の前に置かれたのは、期待していたつやつやのぷっくりのランドセルではなく、しわしわで膨らみがなく、妙に平べったいランドセルだった。
ちょっとおかしいなと思いつつ、しわしわのランドセルを背負って学校に行っても、同級生に何も言われなかった。
子供は自分たちと違うものを待っている子に対して、必ずからかったりしたが、それがなかったので安心したのかもしれない。
そんなランドセルを4年生まで使って、その後は忘れてしまった。
しかし、この歳になって小学生のときの疑問が蘇ってきたのである。
あれはお下がりに間違いない。
まだ使える不用品を有効に使うのは美徳であるが、そのランドセルがお古とは正直に話しづらかったに違いない。
だけど子供心にも、お古が当たり前の時代でもあった。
3人兄弟姉妹あたりが普通だったかなぁ。
豊かになった日本、銭さえあれば何でも買える今の時代。
お古の文化も途絶えてしまいそう。
それよりもこんなご時世、通学する子供たちを見ないのが寂しい限り。
当たり前の風景が、当たり前でないのがとても残念です。
いつしか牡丹が咲く季節になっている
今年はゴールデンウイークという言葉が空しく響く。
このところ暗い毎日が続いている。
続いているだけならいいが、暗さが日毎に増しているところが辛い。
新型コロナウイルスの感染者が、毎日増えている。
不安が黒雲のように胸の中に湧き上がってくる。
不安は孤独を伴う。
孤独は何か頼りになるものを求める。
何でもいい、何かにすがりたい。
すがって安心したい。
藁にでもすがりたい。
藁ですよ、藁屑ですよ。
人間追い込まれると、あんなすがりようにもすがれないものにさえ、すがろうとするものなのだ。
とにかく誰もが不安な毎日を過ごしているのだ。
東京都の小池知事は外出の自粛を強く要請した。
「スティ ホーム」を強く要請した。
飲食店の営業時間は午後8時まで。
お酒の提供は午後7時まで、とし細かく指示した。
7時を過ぎて「ビール❕」とか言う人に対して「ダメ❕」と指示。
8時を過ぎても箸を手にしている人には「置け」と言い、椅子からなかなか立ち上がらない人には「立て」と言ったことになる。
これらの指示は犬的に言うと「待て」とか「お手」とかの言葉に相当する。
8時には店が閉まるので、早めに出かけなければならぬ事態が発生する。
そしていつもと変わらぬ夕方がある。
見上げればいつもの夕焼け。
夕焼け小焼けで日が暮れて、カラスと一緒に帰りましょう、の夕方。
限りなく優しいひと時の夕方。
昭和の時代には毎日「夕方」があった。
映画「三丁目の夕日」は「三丁目の夕方」でもあった。
夕方には夕日が付きもので、夕日には夕焼けが付きもの、夕焼けにはカラスがいてもらわないと困る、という夕方。
その懐かしい夕方が、この非常時であったからこそ、日本人にとって久しぶりの「夕方」。
新型コロナウイルスの蔓延があったればこその「夕方」。
そう思うことにしましょう。
志村さんも「だいじょうぶだぁ」と言い残してくれたことだし。
まだまだ大丈夫、日本。
品薄のマスクがやっと手に入った
たまたま寄ったドラグストアに、たまたまあった。
店員さん立会いのもと、一人ひと箱限定で税込み880円。
高いか安いかよくわからないが、何となく一安心。
店頭に並べる時間帯は秘密とか、要は3密を避けるため。
残り3箱だったからラッキーであった。
政府から支給されるアベノマスクはいたって評判が悪いようだ(まだもらってないけど)。
国家の最高指導者より、小池知事や吉村大阪府知事のほうが判断が速いし、的を得ていると思える。
有事の際に、本当の指導力を発揮するのは小池さんや吉村さんのほうじゃないかな。
と思うのは自分だけではないんじゃないかな。