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8月1日(金)から始まった横浜トリエンナーレ2014に先週行って来た。
既に7月に入ってから猛暑が続く日本列島だが、暑い盛りを避けて会期後半まで待って、うっかり見逃すよりは、暑さなど多少我慢して前半に行ってしまえとばかりに、友人と3人で朝一に現地集合した。
当日の朝、現地横浜MM21地区は、白く薄い雲がベールのように広がった空の下、時折、南から突風が吹いて、地上の塵芥を舞い上がらせるような天気。前日よりは心なしか暑さも和らいだ印象だ。
会場のひとつ横浜美術館前で落ち合った3人は早速館内へ。この横浜トリエンナーレ、私とAさんは2005年以来2回目の見学だ。Bさんはもう4、5回は連続して見ていると言う。
前回は私が企画して、美術館ボランティア10人ほどで見学した。メールで募集をかけ、日時を決め、昼食会場の選定と、行く前から幹事としてやることが目白押しだったが、今回はたまたま「横トリ見たいね」と意気投合した3人で行く、気楽なもの。人数が少ない分、フットワークも軽く、口も滑らか(笑)。
「トリエンナーレに参加する若手のアーティストにとって、トリエンナーレってどんな位置づけなんだろうね?やなぎみわのような有名作家にとっても…」
「参加型もあれば、もっと楽しめるのにね」
「この作家はいろいろ作っているけれど、作風が定まっていないと言うか…何を表現しようとしているのか今ひとつ分からない。試行錯誤しているのかな?それとも、それさえも作品として見せている?」
「映像作品は立って見るのに忍耐がいるわね。しかも同じフロアに幾つもあるから、集中力が続かないわ。いっそのこと、映画館のようにタイムテーブルで順繰りに見せて欲しいわね。」
「何年後かに、"あれ、面白かったね"と、すぐに思い浮かぶ作品、今回の横トリにはあるかな?」
途中休憩のカフェで、
「最近、何か、面白い本読んだ?」
「面白い映画、見たよ」
同世代の美術好きが、横トリのこと、それ以外のこと、忌憚なく言い合いながら、作品を見て行く。そういう気楽さも、通常の美術館で見る展覧会とは違ったトリエンナーレの魅力だろうか?
つい、前回と比べて見てしまうが、あれ?スケール・ダウン?横トリ・ウォッチャーのBさんも、年々、規模が小さくなっている、と残念がる。まるで、日本と言う国の凋落傾向と同調しているかのようだ。全体的に小粒で、元気がない?!その論法で推察すれば、巨大市場で何かと先進国の耳目を集める中国や、伸び盛りの東南アジアのトリエンナーレは、活気に溢れているのだろうか?世界各地で毎年のようにトリエンナーレが開催される昨今、作家も、より注目される場を求めて、参加する国や都市を選別しているのだろうか?
前回は確か大型展示場パシフィコ横浜と横浜赤レンガ倉庫を主会場に、それぞれ美術館とは異なる雰囲気の空間で、所狭しと、ジャンルも様々な作品が展示されていたように思う。人が多かったせいもあるが、一種お祭り騒ぎのような賑やかさだった。
今回も、新港ピア会場は倉庫を用いているが、いかんせん、展示作品の数が少なく、スカスカな印象。入口付近でやなぎみわの絢爛豪華?な舞台装置が出迎えてくれるのだが、その後は心持ちおとなしめな映像作品やオブジェが続く。
広島被爆者の昔と今を撮った写真パネルの展示は、やはり原爆投下のあった8月を意識してのことか?以前、このプロジェクトのドキュメンタリーを見たような覚えがある。アートと言うより、ジャーナリスティック。アートが広く"表現すること"すべてを範疇とする現代においては、これもアートなんだろう。
しかし、作家の(苦心惨憺の?)創作活動の痕跡である作品群を見て、思う。表現者として、世に向けて、何かを発信することの難しさ。手段、形式、様式、今や出尽くした感がある。何を見ても、いつだったか、どこかで目にしたような、既視感がある。
今まで見たことのない、全く新しい何かに出会うことは、もうないのではないか?未知なるものに出会った時の興奮を経験することは、もうないのではないか?
インターネットで繋がった情報化社会において、世界のどこかで起きた出来事は、瞬時にして世界に伝播する。新しい表現も、すぐに使い古される。
「もしかしたら、インターネットの繋がっていない、絶海の孤島辺りで、私達の想像もつかないようなアートが生まれているかもしれないね」~そんな台詞が、つい口をついて出て来たりもする。実際には19世紀の帝国主義時代以降、土着的なプリミティブ・アートでさえ、世に広く知られてしまったのだけれども。
皮肉なことに、"表現すること"すべてをアートと見なした現代、誰もがアーティストになりえる。そんな中で、アーティストがアーティストたり得る条件は何なのだろう?「何でもアリ」「やったもん勝ち」なアートの状況が、却ってアーティストのアイデンティティの危機を招いているようにも見える。それとも、アーティストがアート作品の販売で生計を立てる前提で語っている私のアーティスト観が、偏狭で時代遅れなのだろうか?
例えば、新港ピア会場で見た「世界の献金箱」(笠原恵美子)の写真群は、何かに着眼して、それをひたすら追求し、集積するだけでもアートになり得ることを証左して見せた*1。見る者にとって、アートがより身近に感じられる"作品"である。おそらく私も旅先で見かけたはずなのに、気にも留めなかった献金箱。それが宗教、国、言語圏の違いはもちろんのこと、それぞれの風土によっても形を変え、素材を変え、個性を発揮している。数多く見ているうちに、ジワジワとその面白さが分かって来るから不思議だ。
*1 こうした表現手法を現代美術でアキュミュレーション(accumulation<=蓄積物>)と言うそうだ。元はアウシュビッツなどのユダヤ人収容所に収容されていたユダヤ人の夥しい数の毛髪や靴やカバンを展示して、ナチスドイツの殺戮の歴史を知らしめる主旨から始まったものらしい。そうした背景を知って見るのと、知らずに見るのとでは、この表現形式に対する感じ方も違ったものになるのだろう。
日経新聞9/20付の夕刊コラムで、国立西洋美術館館長の馬淵明子氏が、このことについて言及しているのだが、これを踏まえて、現代における美術の在り方を、単に美しいもの、楽しいもの、心安らぐものだけでなく、現代社会の実相をありのままに表現する(時にそれは目をそむけたくなるものかもしれない。現代美術家って、"哲学している"んだよなあ…)役割を担うものだと馬淵氏は指摘し、その意味で、今回の森村泰昌氏プロデュースによる横浜トリエンナーレを、国際的にも誇れるものだと、高く評価している。
横浜美術館では、Temporary Foundationの作品が印象に残った。鏡を使っての視覚的な面白さ、鮮やかな色遣い、そして、"Court"で法廷とテニスコートを掛けた遊び心。3階のある程度のスペースを割いてのスケール感で、作品の中に入って体感できるのも楽しい。
前回の横トリでは「束芋」氏を発見した。今回は残念ながら、そのような"発見"はなかった(←単に私の感性の問題なのかもしれない)。ただ、現在のアートシーンをウォッチするには、大切な場のひとつである。一般の人々が現代アートを身近に感じるイベントであり、子ども達にとっては、初めて現代アートに出会う場になるかもしれない。
今回は、横浜美術館と新港ピア会場の2カ所を、マイクロバスがピストン運行している。もちろん無料で、乗車前に横トリのチケットを提示すれば良い。基本的に屋外を歩くことは殆どなく、外気の暑さはあまり関係がないようだ。夏休みのお出かけに是非どうぞ!
【2014.08.29追記】
先日、横トリでボランティアを務められている人と話す機会があり、その人曰く、今回の横トリは、プロデューサーの森村氏の掲げたテーマに沿って厳選された作品が展示されているらしい。全容を正しく理解したければ、是非、森村氏自らが手がけておられる音声ガイドを利用して欲しいとのこと。或いは、近くにいるボランティアに遠慮なく質問して下さいと。
私の拙い感想では誤解を招くかもしれないので、以上、追記しておきます。
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