そのむかし、芥川賞をもらった石原慎太郎の小説『太陽の季節』について、佐藤春夫が「あれは股間の剣を使った剣豪小説だ」と皮肉った、と佐野眞一が『てっぺん野郎』(講談社 2003年)で書いている。たかだか障子紙を突き破る程度のフィクションだが、当時としては型破りな反社会的・暴力的な物語とうけとられ、それがうけてしまった。石原は時代が生んだトリックスター、あるいは道化だ。このことから、当然のことながら、石原は以後、大衆に受けるために男としての自己顕示であるマチズモを披露し続けなければならなくなった。
大衆の方も石原がつくり出すマッチョの幻影をおもしろがってくれた。フィリピンの選挙民がかつて、安っぽい活劇映画のスターだったジョセフ・エストラーダをスクリーン上の幻影に惑わされて大統領にしたように、日本の大衆は石原を国会議員にし、東京都知事にした。
石原を世の中にのし上がらせたのは、ペニスによる障子破りのフィクションの一件がきっかけだ。諸外国の紅灯街で日本人と見ると「ウタマロー」と声をかけてくる女性がいるほどの枕絵の伝統を誇る日本人が、あの程度のことで驚嘆したのは、いまとなっては信じがたいことだった。
東京大学で南アジア史を教えた荒松雄の著書『インドとまじわる』(未来社 1982年)には、こんな話がのっている。ベナーレス(現在ではバラナシ)のガートで西洋人の観光客にかこまれてヨーガの技法を披露している老いた修行者がいた。修行者は観光客の前で、毛をそり落としたリンガをむくむと立ち上がらせ、煉瓦を結わえたひもを彼の立ち上がったリンガの先端にかけ、煉瓦をつり下げてみせた。修行者は観光客を引率していたガイドが差し出すお布施には目もくれず、悠然とガートを下り、小舟に乗って去った。老ヨーギは煉瓦をつり下げた。障子紙破りなど子どもだましではないか。
荒が目撃したバナラシの老ヨーギは肉体を意志で統御した。俗人の場合、そうはいかない。フロイトのいう女性のペニス願望の裏返しである男性のペニス誇示欲も、年齢を重ねるうちに現実のほうが欲求に追いつかなくなってくる。障子が破れなくなってくる。そうした体力や能力の衰えに対する不安をまぎらわし、女性に対する優越の誇示をなんとか維持しようとして、石原は女性に対する侮蔑的・攻撃的な言辞をもてあそんだ。肉体が意志を乱すのだ。
2001年の「ババア」暴言がその一つだ。男は80や90になっても生殖能力があるが、女は閉経後に生殖能力を失っても生きているのは地球にとって弊害だ、と言った(注:加齢とともに精子のDNAは劣化し、男の生殖能力は当然減衰している)。石原のマチズモは性的能力の衰えとともに、右翼的言辞、排外的ナショナリズム、自分より力の弱いものに対する侮蔑など、空疎な強がりになっていった。
「ババア」暴言の一件を追及された石原は、あれは東京大学の松井孝典教授の言ったことを引用したに過ぎないと言訳をした。しかし教授の話を紹介するような形をとってはいるが、石原個人の見解の表明である(東京地裁判決)ことは誰の目に明らかだった。俺じゃない、松井が言ったことだと、自分の政治資金パーティーでもくどくどと、「発言についてみっともない弁解を翼々と繰り返す慎太郎を見ていると、マチズモの看板の裏の小心さが透けているようで、正視できなかった」と佐野は『てっぺん野郎』に書いている。
ところで、エドワード・サイードは『オリエンタリズム』で、オリエンタリズムは西洋のオリエントに対する文化ヘゲモニー意識のあらわれだと説明している。その一例としてフランスの小説家フローベールがエジプトで娼婦クチュク・ハネムと同衾したときのエピソードを例にあげている。フローベールはクチュク・ハネムの肉体を所有しただけでなく、彼女がどれほどまでにオリエンタルであるかを、彼女にかわってフローベール自身が――つまり、フローベールのオリエントにたいする根拠のない思い込みを語った、とサイードは説明している。
石原もベトナムで似たようなベトナム認識の仕方をしている。石原が雑誌に書いた雑文を集めた本『国家なる幻影』(文藝春秋 1999年)所収の「ベトナムから政治へ」によると、1966年に読売新聞の依頼でベトナムへ取材に出かけた石原は、取材のかたわら――小説家の文章なので事実なのかフィクションなのかさだかではないのだが――現地で買春した。
「それにそう、デルタ地域のミトで泊まったシナ宿で伽してくれて、翌日の別れに彼女が気にいっていた私の男もののブリーフを記念にやったら抱きついてきた農家の娘」をひきあいに出して、石原は彼の政治への出発点となったベトナムという国を語るのである。短期間の取材中に新聞社特派員らの紹介で会った少数の南ベトナムの人たちや、ベトナムで食べたおいしい料理の記憶をもとに、ベトナムは「ちいさくとも豊かで文化水準の高い国だっただけに、行きずりではあったが、あの優雅なアオザイに包まれた嫋々たる柳腰の娘を腕にするようなせつないほどの一期一会の感慨をあの国には抱いていたものだった」と石原は書く。
こういう安直なベトナム理解が石原の政治への出発点だった。このベトナム取材のさい石原は米軍の野砲陣地で、米軍将校にすすめられるままに大砲の引き金を危うく引きそうになり、同行のカメラマン石川文洋に制止される。石川は石原に向かってこう諭した。
「石原さん、引いてはいけません。引くべきでない。あなたに、この向こうにいるかも知れない人間たちを殺す理由は何もない筈です」(佐野眞一『てっぺん野郎』345-46ページ)
(2011.4.1 花崎泰雄)
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大衆の方も石原がつくり出すマッチョの幻影をおもしろがってくれた。フィリピンの選挙民がかつて、安っぽい活劇映画のスターだったジョセフ・エストラーダをスクリーン上の幻影に惑わされて大統領にしたように、日本の大衆は石原を国会議員にし、東京都知事にした。
石原を世の中にのし上がらせたのは、ペニスによる障子破りのフィクションの一件がきっかけだ。諸外国の紅灯街で日本人と見ると「ウタマロー」と声をかけてくる女性がいるほどの枕絵の伝統を誇る日本人が、あの程度のことで驚嘆したのは、いまとなっては信じがたいことだった。
東京大学で南アジア史を教えた荒松雄の著書『インドとまじわる』(未来社 1982年)には、こんな話がのっている。ベナーレス(現在ではバラナシ)のガートで西洋人の観光客にかこまれてヨーガの技法を披露している老いた修行者がいた。修行者は観光客の前で、毛をそり落としたリンガをむくむと立ち上がらせ、煉瓦を結わえたひもを彼の立ち上がったリンガの先端にかけ、煉瓦をつり下げてみせた。修行者は観光客を引率していたガイドが差し出すお布施には目もくれず、悠然とガートを下り、小舟に乗って去った。老ヨーギは煉瓦をつり下げた。障子紙破りなど子どもだましではないか。
荒が目撃したバナラシの老ヨーギは肉体を意志で統御した。俗人の場合、そうはいかない。フロイトのいう女性のペニス願望の裏返しである男性のペニス誇示欲も、年齢を重ねるうちに現実のほうが欲求に追いつかなくなってくる。障子が破れなくなってくる。そうした体力や能力の衰えに対する不安をまぎらわし、女性に対する優越の誇示をなんとか維持しようとして、石原は女性に対する侮蔑的・攻撃的な言辞をもてあそんだ。肉体が意志を乱すのだ。
2001年の「ババア」暴言がその一つだ。男は80や90になっても生殖能力があるが、女は閉経後に生殖能力を失っても生きているのは地球にとって弊害だ、と言った(注:加齢とともに精子のDNAは劣化し、男の生殖能力は当然減衰している)。石原のマチズモは性的能力の衰えとともに、右翼的言辞、排外的ナショナリズム、自分より力の弱いものに対する侮蔑など、空疎な強がりになっていった。
「ババア」暴言の一件を追及された石原は、あれは東京大学の松井孝典教授の言ったことを引用したに過ぎないと言訳をした。しかし教授の話を紹介するような形をとってはいるが、石原個人の見解の表明である(東京地裁判決)ことは誰の目に明らかだった。俺じゃない、松井が言ったことだと、自分の政治資金パーティーでもくどくどと、「発言についてみっともない弁解を翼々と繰り返す慎太郎を見ていると、マチズモの看板の裏の小心さが透けているようで、正視できなかった」と佐野は『てっぺん野郎』に書いている。
ところで、エドワード・サイードは『オリエンタリズム』で、オリエンタリズムは西洋のオリエントに対する文化ヘゲモニー意識のあらわれだと説明している。その一例としてフランスの小説家フローベールがエジプトで娼婦クチュク・ハネムと同衾したときのエピソードを例にあげている。フローベールはクチュク・ハネムの肉体を所有しただけでなく、彼女がどれほどまでにオリエンタルであるかを、彼女にかわってフローベール自身が――つまり、フローベールのオリエントにたいする根拠のない思い込みを語った、とサイードは説明している。
石原もベトナムで似たようなベトナム認識の仕方をしている。石原が雑誌に書いた雑文を集めた本『国家なる幻影』(文藝春秋 1999年)所収の「ベトナムから政治へ」によると、1966年に読売新聞の依頼でベトナムへ取材に出かけた石原は、取材のかたわら――小説家の文章なので事実なのかフィクションなのかさだかではないのだが――現地で買春した。
「それにそう、デルタ地域のミトで泊まったシナ宿で伽してくれて、翌日の別れに彼女が気にいっていた私の男もののブリーフを記念にやったら抱きついてきた農家の娘」をひきあいに出して、石原は彼の政治への出発点となったベトナムという国を語るのである。短期間の取材中に新聞社特派員らの紹介で会った少数の南ベトナムの人たちや、ベトナムで食べたおいしい料理の記憶をもとに、ベトナムは「ちいさくとも豊かで文化水準の高い国だっただけに、行きずりではあったが、あの優雅なアオザイに包まれた嫋々たる柳腰の娘を腕にするようなせつないほどの一期一会の感慨をあの国には抱いていたものだった」と石原は書く。
こういう安直なベトナム理解が石原の政治への出発点だった。このベトナム取材のさい石原は米軍の野砲陣地で、米軍将校にすすめられるままに大砲の引き金を危うく引きそうになり、同行のカメラマン石川文洋に制止される。石川は石原に向かってこう諭した。
「石原さん、引いてはいけません。引くべきでない。あなたに、この向こうにいるかも知れない人間たちを殺す理由は何もない筈です」(佐野眞一『てっぺん野郎』345-46ページ)
(2011.4.1 花崎泰雄)
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