新藤義孝総務相が4月12日、靖国神社に参拝し、対日批判にいれこんでいる中国をまたまたよろこばせた。新藤総務相は「戦争で命を落とした方々に哀悼を捧げることはどこの国でも行われる」「私的な行為であり、他国に制限されることには当たらない」と記者団に語ったそうである。
待ってました、とばかり、中国外務省が同じ日、洪磊副報道局長の談話を発表。「日本の現内閣の歴史に対する誤った態度を改めて示した」「時代の流れに背く一切の挑発行為をやめよ」と同じトーンの対日批判を繰り返した。
安倍晋三首相の靖国神社参拝について、米国のアーミテージ元国務副長官が講演で、「中国を喜ばせた」「日本を非難する中国の外交活動を有利にする結果になった」と指摘したことがある。
これまでに、日本政府要人の靖国神社参拝で、中国にはずいぶんと外交得点を稼がせてしまっている。外交上の損得勘定からいえば、日本の靖国参拝要人はまるで中国の手先のような働きをしてきた。
困ったものである。
ところで、神社には「勧請」という細胞分裂的手法がある。日本全国に伏見稲荷が行き渡っているのはこの手法を使っているからだ。
そこで新藤総務相のように「私的な行為として靖国神社に参拝する」政府要人・政界の大物議員の私的な行為が、中国の外交得点にならぬようにするために、靖国神社の神様を勧請し、希望する政府要人・政界の大物の自宅に分祠を(当然、費用は受益者負担で)つくらせてはどうだろうか。彼らは朝な夕な、報道記者たちに邪魔されることなく自宅の片隅で心行くまで靖国の御霊に礼拝することができる。
神道の考え方では、たとえば伏見稲荷大社が何万件の勧請に応えたとしても、伏見大社の神霊がちびたり減ったりすることはまったくない。靖国神社の神霊も同様だろう。「ないもの」はいくら分けてもないことにかわりはないからだ。
こうした工夫で、中国の対日攻撃の焦点を一つ減らすことができる。やってみる値打はあるとおもうのだが。
(2014.4.12 花崎泰雄)