桜が咲いて入学式のシーズンだ。
4月4日のNHKニュースが、東京工業大学の入学式で学長が英語で式辞を述べた、と伝えていた。20016年度入学式からの新しい試みだそうだ。
学長さんの英語をきちんと聞き取れない新入生がいることを予測して、大学は日本語訳を事前に配布した。学長式辞の英文テキストではなく、日本語訳であったというのが、なんとも興味深い。
そうまでして、なぜ英語の式辞なのか。
グローバル人材養成の一環としての英語による式辞であると、NHKは大学の考え方を説明した。多言語主義のEUでも、英語が母語ではない国では、英語の有用性を認めており、英語の習得に関心が高い。英語の有用性は否定しがたい。
とはいえ、英語圏の大学は英語でグローバル人材を養成している。スペイン語圏はスペイン語で同じことをしている。フランス語圏でもドイツ語圏でも同じだろう。フランスの名門校エコール・ポリテクニークの入学式で(有るかどうか知らないが)学長さんが英語で式辞(というものがあるかどうかも知らないが)を述べるということが、いったい、あるのだろうか?
グローバル、即、英語というのも短絡した考え方だ。グローバルという多元主義の旗をふりつつ、実際にやっていることは英語への一元化である。
あるいは、懐古趣味かも知れない。日本という国がすでに骨董化した明治という時代へと先祖返りしていることの一端ではあるまいかと思える。維新という党名もあった。自民党の憲法改正草案は明治憲法への回帰がにじむ。今度は大学が諸般の事情によって、明治時代に帝国大学が設立されたころの、いわゆるお雇い外国人による英語を用いた講義への先祖がえりをはかっている気配も感じられる。
お雇い外国人の時代から1世紀以上がたった。日本は世界に冠たる翻訳文化国家になった。大学院博士課程の教育も日本語でできる。そのスタッフがそろっている。マルクス研究であれ、ケインズ研究であれ、ドイツ語や英語が十分できなくても研究ができるだけの日本語(翻訳も含めて)文献はそろっている。
そもそも学部学生がケインズを英語で読むとしたら、年にいったい何冊読了できるだろうか。だが、翻訳であれば、ケインズ著作集全巻の読破も不可能ではないだろう。
言葉はコミュニケーションの道具であるが、一方で、思考の道具である。思考を鍛える一つの方法が読書である。知識が空っぽの頭で、英語をしゃべったところで、それがなんになる。
大学に英語は使えるが日本語ができない外国人教授が増え、やがて教授会が、どこかの企業の会議のように英語で行われるようになったばあい、英語で達者なレトリックを駆使できる英語系教授の意見が日本語系教授の意見を組み伏せるようになるだろう。
それよりも心配なのは、理工系は別にして、人文社会系の大学教育だ。母国語が日本語の教授が英語で講義をすれば、たいていの場合、日本語による講義よりも内容が薄くなる。学生も日本語の講義を聞く場合よりも、英語の講義の場合の方が理解度が浅くなる。つまりは、授業内容の低下である。嘘だと思うなら、試みに国会審議の用語を英語に限定して、議員たちに審議中継をやってもらえばいい。日本語でやってもあの程度だから、英語でやればまずは聞くに堪えない内容になること請け合いだ。
(2016.4.4 花崎泰雄)