老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

190;五木ひろしのように目が細いと~死ぬ

2017-06-13 21:03:44 | 老いの光影
たそがれるbeagle元気

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83歳を過ぎた軽度の認知症婆さん 川中美由紀さんは
心配性の塊の人で 被害妄想が気球のように膨らむ
「目が細い人は 早死にする」
「私も目が細くなってきたから 今日か明日にでも死んでしまうのでは
昨夜は眠れなかった」
傍で聞いたいた介護員は
「大丈夫 五木ひろしだって目が細いけど 死なずに歌っているから大丈夫」
本人は理解したのかどうか「・・・・・・・・・」



189;海辺の夕陽に憧れる

2017-06-13 13:23:03 | 老いびとの聲
スヌーピーが大好き!
それで
beagle元気が
家族になりました

ご訪問いただき、ありがとうございます

鴨長明の方丈記を読むたびに
人生の無常観を感じてしまいます

怠けて生きても
頑張って生きても
人間 最後は死ぬ
死んだら終わり
であれば
好きなように生きる
と云っても
やはり空しくなるだけ

視点を変え
死ぬ運命にあるからこそ
死ぬときに
生きてよかった
と 思えるような
呟きをしたいものだ
まだ
生きてよかった
と 云えるような
境涯に達していない

最期は
wifeの膝枕で
日本海に沈む夕陽を眺め
永い眠りにつく
そんな情景を憧れている
(膝枕ではなく肘鉄砲を頂いたりして)


188;蝸牛

2017-06-13 04:39:49 | 春夏秋冬
19時過ぎの空模様
だいぶ陽が伸びてきました
気持ち的に嬉しいです

ご訪問いただき、ありがとうございます

齢を重ねるほど
時間の流れを早く感じてしまう
予定通りにいかないのが人生だが
老いは小さな喪失から大きな喪失まで体験していくときだけに
喪失の体験を乗り越え
与えられた条件のなかで
いまを 生きる

まだ ことしは蝸牛に遭遇してはいない
雨降りの朝 蝸牛に会えることを楽しみにしている
蝸牛のように 
ゆっくりと日々を過ごしていきたいものだ


家(殻)を失った蝸牛は ナメクジになるのかな?
19歳の春まで北海道で過ごしていたのだが
ナメクジを始めてみたのは
19歳の春にひとり津軽海峡をわたり(涙の連絡船に乗りました)
内地に着いた(北海道の年配者は本州のことを「内地」と呼ぶ)
(本州の年配者は北海道のことを「外地」と呼ぶ~これは嫌な呼び方だね)
(北海道の年配者は北海道のことを「外地」とは言わない)
(似た言葉で 沖縄に対し本州を「本土」と呼ぶ 「本土復帰」、ころも嫌な呼び方)
誰もが自分の住んでいるところが 心の中心地である、と言いたい
最後は蝸牛に関係ない話に飛んでいってしまった