死を悼む
ご訪問いただき、ありがとうございます
鈴さん(89歳)が永い眠りについた。
二月頃前から食事を意識的に摂らなくなった。
途中で一度は食べたもの、また食事拒否となり、痩せていく一方であった。
お腹はかなり空き、「キュルルン、キュルルン」と鳴いても食べようとはしなかった。
点滴で生命(いのち)を辛うじて繋ぎとめ今日まで生きらえてきた。
極限の飢えと闘い終えた後の鈴さんの死顔は穏やかであった。
飢えから解放されたからであろうか。
彼女の頭の髪を掌で撫でながら、心のなかで「頑張ったね」と呟いた。
昨年の暮れに妹が他界し、後を追うように鈴さんはあの世に逝かれた。
頑(かたく)なに食べようとはしなかったのは何故なのか。
生きる目的を喪失したからなのか。
それで生きている張合いや生きている意味が「無く」なったために、
食事拒否という消極的自殺の途を選んだのか。
ひとりの「死」は、
「亡くなる」ことを意味し、その人がもうこの世に「居なくなる」ことである。
「亡くなる」ことは「居なくなる」ことであり、
この世にその人の存在が「無い」ことに列なる。
息をひきとる瞬間まで、この世に存在していたかけがえのない人が、
「死」によって、もうこの世には存在してない。
会いたくても言葉をかけたくても、もう傍に「居ない」。
大切な人が、親しかった人が、居なくなる=亡くなる、
そのことほど悲しく辛いものはない。
人間死ぬと時間が経つにつれ、その人のことを忘れてしまう。
自分が忘れてしまうことほど寂しいものはない。
いつまでもその人の死(喪失)から立ち上がれずにいると、
心の病を患ってしまいかねない。
ふと、何かあったとき、亡くなったその人が心に浮かび、
その人に心で語りかけることで、その人は心の世界で生き還ってくる。
人間死を怖れている、それは自分がこの世から居なくなることで、
生きていたという自分を忘れ去られてしまう、
そのことを怖れているのではないかと思う。
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鈴さん(89歳)が永い眠りについた。
二月頃前から食事を意識的に摂らなくなった。
途中で一度は食べたもの、また食事拒否となり、痩せていく一方であった。
お腹はかなり空き、「キュルルン、キュルルン」と鳴いても食べようとはしなかった。
点滴で生命(いのち)を辛うじて繋ぎとめ今日まで生きらえてきた。
極限の飢えと闘い終えた後の鈴さんの死顔は穏やかであった。
飢えから解放されたからであろうか。
彼女の頭の髪を掌で撫でながら、心のなかで「頑張ったね」と呟いた。
昨年の暮れに妹が他界し、後を追うように鈴さんはあの世に逝かれた。
頑(かたく)なに食べようとはしなかったのは何故なのか。
生きる目的を喪失したからなのか。
それで生きている張合いや生きている意味が「無く」なったために、
食事拒否という消極的自殺の途を選んだのか。
ひとりの「死」は、
「亡くなる」ことを意味し、その人がもうこの世に「居なくなる」ことである。
「亡くなる」ことは「居なくなる」ことであり、
この世にその人の存在が「無い」ことに列なる。
息をひきとる瞬間まで、この世に存在していたかけがえのない人が、
「死」によって、もうこの世には存在してない。
会いたくても言葉をかけたくても、もう傍に「居ない」。
大切な人が、親しかった人が、居なくなる=亡くなる、
そのことほど悲しく辛いものはない。
人間死ぬと時間が経つにつれ、その人のことを忘れてしまう。
自分が忘れてしまうことほど寂しいものはない。
いつまでもその人の死(喪失)から立ち上がれずにいると、
心の病を患ってしまいかねない。
ふと、何かあったとき、亡くなったその人が心に浮かび、
その人に心で語りかけることで、その人は心の世界で生き還ってくる。
人間死を怖れている、それは自分がこの世から居なくなることで、
生きていたという自分を忘れ去られてしまう、
そのことを怖れているのではないかと思う。