老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

386;太陽

2017-09-13 16:00:47 | 老いびとの聲
 太陽

東の空に昇る太陽(あさひ)は
私の影までも照らす
東の空に向かい
今日も生きられることに感謝し祈る
小さな幸福に出会えることを夢見る

西の空に沈む太陽(ゆうひ)は
私の愁いを包み込む
西の空に向かい
今日も生きられたことに感謝し祈る
何も無かったことが小さな幸福





385;「寝たきり状態」からの挑戦 ⑤

2017-09-13 11:47:58 | 老いの光影
 「寝たきり状態」からの挑戦⑤

昨日18時30分 清子さん宅を在宅訪問
堀川清子さんを通し
食べること水を飲むことの大切さをあらためて感じる

水を飲まなければ
体は乾き オシッコも出ない
おむつをしていると
嫁に気兼ねをし
水を口にしない
1日おきのデイサービスにきたとき
乾いた体に
水が染み込み
オシッコは1回限り
お年寄りは
暑さに関係なく
脱水症に陥りやすい
水は生命を潤す

食べなければ
体に力が入らず
立ち上がることもできない
食べなければウンチもでない
トイレまで移動し
洋式便器でウンチをしたときの気持ち
おむつをした人でないわからない
清子さんは
「なんて言葉にしていいかわからない」
二度とおむつのなかにウンチはしたくない
惨めな自分があるだけ
嫁に迷惑をかけて申し訳ない
だから食べる量を抑えてしまい
小鉢一つのおかずとお椀に半分のご飯
栄養と酸素が欠乏し
脱水に拍車がかかってしまう
1日1回でもいいから食事を摂ることがポイントになる

いま、月水金 30分の身体介護を組み、ベッド上でのおむつ交換をしているが
来週の月曜日からは中止することにした

(本人、長男の了解を得た)
おむつを取り替えるだけで、陰部清拭もしない
(ケアプランに陰部清拭の実施を記載しているのだが)
デイサービスでトイレで排せつ、自宅ではヘルパーがベッド上でおむつ交換
なんだかちぐはぐなケアプランに思えてくる
そのうえ 自宅では十分な水分と食事が摂れていない
(そのことを長男夫婦には栄養不足、食事量が足りないとストレートには話してはいない
デイサービスだと楽しみもあり食欲もわき、全量摂取されている、みんなと食べたほうが元気になるのでは、と)

来週の月曜から
月水金は 9:30から13:30までのデイサービスにした
昼食を摂り、休んでからトイレに行き、13:30~14:00の間に自宅へ早帰り
火木土は いま利用されていて9:30から16:40までデイサービス

歩行器などでつかまり立ちができる 
または自分でベッドからポータブルトイレに乗り移り用足しができる

そのことができたときにはデイサービスは火木土の週3回利用に戻し
月水金の短時間デイサービスはなくしていきたいと長男に話す


90歳を越えても 再び歩くことを夢見る

384;秋分の日

2017-09-13 06:44:02 | 老いの光影
 秋分の日

彼岸がやって来る
22本の蠟燭の違いがある妻は
毎朝仏壇にお水、ご飯等お供え物を欠かさず為し
線香をあげなきゃだめよ
ご先祖を大事にすると
事故や大病から私たちを守ってくれるよ

と云われ
一緒に暮らすようになってからは
晴れの日も 曇りの日も 雨の日も 雪の日も
毎日 お供え物を上げることが私の役目となった

お陰様で
大病もなく
交通事故もなく
今日まで生きて来られた
感謝 

383:認知症老人と存在論③

2017-09-13 04:25:08 | 文学からみた介護
 認知症老人と存在論 ②
~ハイデガーの哲学から考える~


(3)「存在の意味」と認知症老人
 
本節では認知症老人と「存在する」ことの意味について考えていきたい。
ハイデガーは、「存在の問い」のことを「存在の意味についての問い」とも呼び、
「存在の意味」は二重のことを指している(22頁)。

 
ひとつは、「ある」という言葉の意味である。
ふたつは、現実に私たちが生きる意味である。

まず前者の意味は哲学としての「ある」(在る)という存在論を解明していく理論の問題である。
他方(後者)の意味は、生きていく意味としての言葉であり、生きてきた成果や結果の意味での人生での問題を解明していくことにある。

ハイデガーは哲学の意味と人生の意味との両方の側面を区別せずに二重の意味として同じものとして捉えている。

彼は続けて「意味」の解明を更に試み、
「意味」とはなにかについて『存在と時間』のなかでこう述べている。

「意味とは、あることがわかっている場のことでる。それがわかって、それを解明できるとき、はっきりと口に出すことができるもの、それを意味と呼ぶ」(24頁)。

ハイデガーの存在論の中心課題は、いまここに生きている自分そのものをどう理解しているのか、ということだ
いま生きている自分の存在そのもの、存在している意味自体をどう捉えているのか。

存在している自分というひとりの人間は、他人の事ではなく、まさに私たちひとりひとりの問題であり、
誰人にも代わり得ることのできない「自分の問題」なのである。

だからこそケアという仕事は、
ひとりひとりの認知症老人を大切にすることであり、
個別性が重んじられなければならないのも、
こうしてハイデガーの存在の意味が重要な意味を帯びてくるのである。
誰もしも
自分を含め
そのひとりの人間の存在は
かけがえのない生命や人生であり
他者に代わり得ないからこそ
その人の存在があり
その人の人生史とは重ね合い
生きることの意味が問われてくるのである。