老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

401;{オシッコ考 ①}「オシッコが出る」のは、当たり前

2017-09-18 15:28:51 | 排せつ考
 「オシッコが出る」のは、当たり前

手足が不自由になり
トイレに行くことも
一人ではままならぬ
洋式便器の前に立っても
ズボン、下着の上げ下げも
(人様の)やっかいになってしまう
嫁や他人のお世話ともなれば
お茶など水分を控えてしまい
トイレに行く回数を極力減らす
(結果 脱水症となり救急車で病院搬送)
水分を十分にとり
オシッコが出ることは
自然の摂理なのだ
オシッコが出ないと大変なことになる

それが介護になると
「またオシッコでたの!」
「さっき行ったばかりでしょ」
(さっき取り換えたばかりでしょ)
と、つい口から言葉が漏れてしまう

人間 水を飲んだ分(量)だけ
オシッコも同じ量が出る
だからオッシコが出るのは当たり前

人間 
水を飲まなくなり
オシッコもでなくなると
臨終が近い


400;感謝

2017-09-18 10:38:34 | 老いびとの聲
来月22日で109歳を迎える安達サタさん
いまも歩行器につかまり歩いている

感謝 

『桜梅桃李』から引き継ぎ『春夏秋冬/老い楽の詩』は
今回で400回を迎えた
皆様のお蔭で継続することができました
ありがとうございます


いまこうして自分が
生きていること
そして
体と頭が働く(機能する)限り
小さなことでもいいから
社会とのかかわりを持てることに
感謝し生きる

慢性腎不全を患わってからは
蛋白やカロリー制限のため
胃袋が小さくなり食べる量も減ってきた
wifeの祖母 安達サタさんを見倣い
腹八分ではなく腹七分と「少欲知足」の暮らしが大切と話されていた




399;早朝から鈴虫の鳴き声

2017-09-18 08:00:14 | 春夏秋冬
 早朝から鈴虫の鳴き声

窪地に雨水が溜まっている
雨は止んだ
外は薄明りになり
風の鳴き声とともに
鈴虫が鳴いている

台風18号は走り抜けた
幼児も老人も
送迎車を安心して
待つことが出来る
 

398;認知症老人と存在論 ⑤

2017-09-18 04:57:30 | 文学からみた介護
 認知症老人と存在論 ⑤
~ハイデガーの哲学から考える~


(4)「ある」ということばの意味
 
「ある」ということばを、『類語新辞典』(大野晋・浜西正人著、角川文庫)を紐解いてみると、
「有無」という箇所に当たり、[ありーそこに物があること]として、「有る」「在る」「居る」「存する」が列挙されている。
「有る」「在る」「居る」の存在は日常語として使われ、
「存する」の存在は文章語として使われている。

いまここに自分が「在る」ということは、
いまこうして自分が「生きている」ことであり、
いま生きているとは自分の「居る場所」(居場所)が「在る」のかということに連なる。

ハイデガーは「ある」ということばは、
漠然とした理解ではなく、存在論の中心的な問題であり、
「自分の存在をどう理解するかは、自分がどう存在していくかと深く関わっており、自分の生きかたそのものを決定して」いくことである(31頁)。

自分自身の存在が大事であるということ、
それは自分の生きかた、
自分の人生そのものを大切にしていきたいと思い願っている。

それは自分だけでなく、
他者に対しても同じ人間として「自分自身の存在や人生、家族そのものの存在」も同様に大事なのである。
老人介護において、
ひとりの人間としての「老人の存在が大事」であり、
「存在をよりよく理解」しようと努力しているかである。
老人は、私たちに「ある」ということばの意味と理解について問題提起されていることを忘れてはならない。


※最後までお読みいただきありがとうございました。