老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

836; 小さな雨蛙

2018-07-22 18:46:00 | 空蝉


小さな雨蛙

酷暑になる前に
四時五十分過ぎ
beagle元気と散歩に
出かけたときのことを
徒然なるままに綴ってみた。

何処に居ても空の下に棲む。
今日は常総國の畦路から空風景を眺る。
処変われば空風景も様変わりする。
関東平野は山が無く、限りなく見とおせる景色が好き。
心が自由になる感じがする。

畦路からヒョッコリ小さな雨蛙が飛び出して来た。
自分と同じく酷暑の前に散歩を始めたのであろうか。
可愛げな跳躍に目を細めた。
小さな小さな生命に心のなかで声援を送った。

外陰癌で他界された婆さんの塔婆が倒れていないか、
beagle元気と散歩の途中、墓場を寄り路した。
三本の塔婆は倒れてなく、ホッとした。
成仏できるようお祈りをした。

路端に向日葵ではなく、秋桜が咲いていた。

834;「介護思想」( 9 ) 老人とその家族から想う

2018-07-22 09:54:12 | 介護の深淵

老人とその家族から想う

老いを迎え
晩年何事もなく
死の瞬間(とき)まで
「元気」に生きていたい。
宝クジ の確率よりも高く
予期せぬ病いや骨折などに遭遇し
要介護老人となってしまった。
これは他人事ではなく、
自分の場合も要介護老人になる確率は高い。
骨粗鬆症、慢性腎不全症、高血圧症、四肢の筋力低下の状態にある。
記憶力が落ちてきているが、
まだ他者のせいにしていないから、
安心はしている。

在宅訪問のとき、ケアマネジャーは
どこまで要介護老人や家族の気持ちをわかっているのか
(理解しているのか)。
ときには、老人と家族介護者の気持ちが
相反することもある。
八十五歳、九十歳の超老人達は、
頑固、我儘な性格である一面、
息子夫婦(娘夫婦)に対し、
忍耐や我慢をしているところがある。

誰でもがそうであるとは限らないが、
自分の家で過ごす自由(時空間)は最高である。
年齢に関係なく家は自由気儘に過ごせる。
気兼ねなく横になりテレビを観たりおやつを食べたりできる。

齢を嵩ね 、日中独居状態 になり
老いた父親(母親)を独りでおくことに不安を抱いた「成人した」子どもは、
「デイサービスに行ったら」と水を向ける。
心底は「(知らない老人達の所へは)生きたくはない」が、
息子夫婦もケアマネジャーも勧めたので、
「仕方なく」デイサービスに通うことになった。

これからはデイサービスの事業所を決める場合には、
ケアマネジャーは
複数の事業所の中から
老人やその家族が選択できるよう
支援していくことが求められる。
それ以上に老人は何の目的でデイサービスに行くのか。
行きたくないのに、行かされている。
二十五人以上も居るようなデイサービスには、
自分ならば行きたくはない。
家族が其処に行かせたい。
福祉法人や医療法人のような大きい組織ならば安心。
ケアマネジャーは「否」と話すことは出来ない。



833;ときどき、ふと思うこと

2018-07-22 04:35:39 | 空蝉
ときどき、ふと思うこと

自分は、ときどき、ふと思うことがある。
自分は、いま生きている。
暑い八月に生まれた自分。
徒らに生き齢六十六になろうとしている。
振り返ると、
生きてきた証明(あかし)を示すものは、
何も無い。
気がついたら浦島太郎に似ている。
何もしないうちに、
時間は過ぎ行き、
気がついたら白髪になっていた。
怒りの人生は少なくなり、
沙時計のようなもの。

鴨長明の『方丈記』の中に
川の流れ は泡沫の如し。
儚く消えてゆく人生。
それだけに何を大切にして生きていくのか。
自分の場合、
恥ずかしながら何も無い 。
「死んだ男が残したものは、妻と一匹の犬」だけかもしれない。
いま在る憂いだけは解決してから、逝く。

散歩 しながら、ふと思う。
自分は、他者になり かわることはできない。
自分は自分でしかないし、
死んだら、自分も其処でお終いだ。
死んだ後の自分は もう考えること感じることも
できなくなる無の「存在」。