老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

15;励ましのコメントありがとうございます

2017-04-15 04:58:37 | 春夏秋冬

励ましのコメントありがとうございます😊
頭はスッキリせず、身体も怠い
1時間おきにトイレ🚽 に行くのが辛い
寝た 気がしない

只今5時過ぎ今日は晴れ
病室は小児 病棟の中にあり
昨夜幼い子どの 泣き声が聞こえた。
母親が傍らに居なく 不安と寂しさで泣いていたのかな。

自宅 には一人の妻とbeagle元気がいます
自宅から病院まで30㎞あります
妻に負担をかけ もし訳ないです。
きっと元気は帰りを待ってる⁉️

14;入院

2017-04-14 17:06:54 | 春夏秋冬
仕事が忙しい
いつも人生の大先輩に
水分を摂るよう話していた自分
それが昨日悪寒を覚え即寝た
今日の朝検温したら39.4℃
インフルエンザかな
腎泌尿器科クリニック受診
その結果、尿路感染で
1週間病院🏥入院となる
タブレット、まだ使いこなせなくて
時間がかかる
電話連絡がないと
老人に不信と心配をかけてしまう
8年余前に腎臓移植した体だということを忘れ
水分と睡眠
大切だね
そういうわけで
老いの風景は1週間お休みします
神様くれた休息と思い
病室の窓から見える空を観察します

病気二モマケズを書いて
病気で入院した自分
なんだか・・・・

13;「病気ニモマケズ」

2017-04-13 15:34:57 | 介護の深淵



星 光輝「病気ニモマケズ」

病気ニモマケズ
障害ニモマケズ
肺炎ニモ夏ノ熱中症ニモマケズ
丈夫ナカラダヲネガイ
慾ハナク
決シテ諦メズ
イツモシズカニワラッテヰル
一日塩分六グラムト
野菜ト少シノ肉ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンノカンジョウヲ捨テサリ
ヨク立場ヲワカリ
ソシテワスレズ
施設ノ居室ノカーテンノ陰ノ
小サナ特殊寝台ニジット生キテイル

東ニ寝タキリノロウジンアレバ
行ツテ介護シテヤリ
西ニツカレタ家族介護者アレバ
行ツテソノロウジンノ世話ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニ惚ケタ人ガミチニマヨッテイレバ
モウ安心ダカラネトイヒ
ナカマガ他界シタトキハ泪ヲナガシ
ゲンキデ春ヲムカエタトキハ桜ヲミル
ヤクニンニ ヨウカイゴロウジン トヨバレ
ネンネン介護給付ハキビシクナリ
苦ニモセズニ
ワタシナリニ
イマニイキテイル

宮沢賢治さんが、拙い「編詩」?を目にしたとき 苦笑するのか、それとも





宮澤賢治「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテヰル
一日玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

12;親の人生 子の人生

2017-04-13 08:09:00 | 介護の深淵

いまNHK連ドラ『ひよっこ』が放映されていますが
昭和39年 東京オリンピックが開催された当時
私は小学6年生のときで 蝦夷富士の麓で暮らしていた。
ランプ生活に別れを告げ ようやく電燈が点いた。
或る老人はこんなことを呟いていた。
「いまは便利がよく、生活は豊かになったけれど、昔は暮らしが貧しくても過ごしやすかった」。
大切なのは 物より心。時間の流れも遅かった。


平成元年 老人介護の世界に足を入れ、いまに至る。
20余年前に老女が話してくれた思いは、いまも変わらない。
それは、老人病院で看護助手として半年間研修をしていたときのことであった。

バンドが自由に伸び縮みのする古腕時計を見たら、
短針と長針が重なり、後2分少しで退勤時間の午後5時30分になるところだった。
93歳になる老女の手を軽く握り、
「また、明日もよろしくね」と言って
ベッドの傍から立ち去ろうとしたとき、
彼女は何を思ったのか、
ポッソと「日本の老人は寂しい。施設に居ようが、病院に居ようが、家に居ようが、老人は寂しい」と呟いた。
「日本の老人は寂しい」という呟きが、いまも私の心を疼かせている。

家があり 家族が住んでいても 家の中に住む老人は孤独
伴侶を亡くし 独りになっても 
自由気儘に暮らす孤独の方いい。
在宅訪問で そう感じてしまう
問題は最期どのような形で
自分の死を看取るか・・・

 

私自身も7年前
母を認知症グループホームから呼び寄せ
一緒に暮らしたが
途中からの同居生活は難しく無理があった
介護施設では認知症老人との関係づくりはスムーズにできたが
自分の親となると
感情が入り 思うようにいかなかった
最期 病室で母の手を握り見送ることはできたが
ふと「母の介護を振り返ると 親不孝だったのかな?」と、反省と後悔が入り混じるが、
もう親孝行はできない。
親孝行は 親が生きている間しかできない。
だからと言って 子は親に対して何ができるのか。
したいこと できること やれること は何か。
親の人生
子の人生
それぞれである。







11;家に帰りたい「死に水」3

2017-04-13 07:48:24 | 老いの光影


4月9日に掲載した 家に帰りたい「死に水」1,2の続きです
時間があき 申し訳ありません




介護施設からみきさんの家までは2kmあるなしだったが
近くて遠い我が家であった。
七夕の日の午後、
窓際にベッドで寝ていたみきさんはナースコールを押した。
行ってみると、
彼女は手を合わせ、聞き取れない声で呻く。
私は屈み彼女の口元に耳を近づけた。
「死にたい」「苦しい」と微かな言葉。
呼吸が乱れ脈も弱かった・・・・。
看護師を呼んだあと、私は急いで家族に電話をかけた。
いつもより状態がよくないことを伝え、
「どうにか家に帰れる」よう再度お願いをした。
チョッとの間、沈黙が流れた。
孫嫁は「いま迎えにいくことをおばあちゃんに伝えて欲しい」と話してくれた。
私はみきさんの手を握り、孫嫁の言葉を伝える。
張り詰めた糸がプツンと切れたのか、
これで「家に帰れる」と安堵した表情を見せた彼女

それから間もなくの午後3時53分、
みきさんは永い眠りにつく。
無念ながら家に帰ることはできなかったが、
「いま迎えに行く」という
家族の声を最後に聴くことができた。

孫嫁は持参した自宅の井戸水を唇に濡らす・・・。
七夕の日に、みきさんの願いごとが叶ったのだ、
と 私ひとり思い込む。
『眠れる美女』の老人が言うように、
「老人は死の隣人」であるからこそ、
誰よりも「お・か・え・り・な・さ・い」の
言葉を待っていたのだと思う。

10;ありがとうございます/優しさは失われない

2017-04-12 04:34:59 | 老いの光影
marimo_gmさん
コメントありがとうございます
眼が見えなくても
相手の心はよく見えてくるのかもしれません
物忘れが進んでも
小さかったときの我が子の想い出は
ときどきふと記憶が蘇り
その時代に帰ります

「100歳まで生きる」
とても大切な思いだと思います


【優しさは失われない】

一年前に観た南湖公園。
今年も厳しい冬の寒さを乗り越え
あと2週間足らずで また桜の花を観ることができる。
千代さんに「いくつですか」と尋ねると
素直に「40歳かな」と涼しく答える(本人は本当にそう思っている)。
65歳を越えた息子だが、千代さんの気持ちのなかでは まだ小学生の息子なのだ。
高熱をだし体が弱っているから 何か栄養のあるものでも、食べさせてあげたい。
たどたどしい足どりでキッチンまで行き
煮魚を温めた。
人間は 誰かの役に立ちたい。
誰かの役に立つことにより
自分自身の居場所や存在感を感じる。
千代さんの場合は 
重い認知症を患っていても  高熱を出した
わが子のことを思い 母親の役目を果たそうと
ガスコンロに火を点けた。
真っ黒に焦げた魚に目がいき
「あぶないじゃないか、火事を起したどうする」と 強い口調で叱ってしまいがちになる。
叱ることよりも「ありがとう」の声かけが大切。
千代さん当人にしてみれば
彼女は 高熱をだし何も食べていない息子のためにしたこと。
何故叱られたのか(怒られたのか) 意味がわからない。
認知症を患っても 
人間の優しさは失われていない。
火事にならなかったのが幸いであった。
それ以降 ガスの元栓は閉められた・・・。

9;いま こうして生かされていることに感謝します

2017-04-12 01:08:31 | 老いの光影
『吾輩は猫である』。

 
余の名前は「屋敷裏太郎」と言います。

余が最初に飼われていたご主人様は誰であったかは思いだしたくもなく、

余の年齢さえもわからないのです。

飽きっぽい飼い主から捨てられた余は、その日から野良猫となり、

野良猫になった飼い猫ほど可哀想で惨めなものはありません。

捨てられた瞬間(とき)から、余は餌もなく寝る家もありません。

例え餌をみつけたとしてもボス野良猫や野良犬に取られてしまうのが落ちでした。

余が辿り(たどり)着いた処はメガステージ白河にあるスーパーの軒下でありました。

いつの間にか、余の自慢の毛並は泥と糞尿まみれになり、

骨が数えられるほどで煎餅板のように痩せこけ、立つことさえもできなくなりました。

汚く臭く腐り「死神」にとり憑(とりつ)かれ瀕死状態にあった猫を目にしても、

多くの人間様は余を避け素通りしていくだけでした。

しかし、「捨てる神」あれば「拾う神」ありで、

そのスーパーへ買い物に来たある婦人(65歳)は余の姿を見ても嫌がらず、

余の傍(そば)に寄りつき憐み悲しみの目で声をかけてくれたのです。

夫人は急いで堀川が流れる川岸の家に戻り夫に相談したのです。

「連れてきたら」という夫の優しい言葉に促され、

夫人はバスタオルを手にし、衰弱した余の体を包み、その足で動物病院に向かい治療してくれたのでした。

獣医から「治療費が高額にかかり、かなり衰弱しており(生命が)もつかどうかもわかりませんよ」。

しかも、余がエイズと診断されても、

新しいご主人様は、戸惑うこともなく吾が子のように自宅に連れ帰り余を看病してくれたのでした。

少しずつミルクを与えられ、体力も回復し歩くことができるまでになりました。

余に言葉が話せたら、心優しいご主人様に「ありがとう」の五文字を伝えたい気持ちで一杯です。

あれから3年と5カ月の時間が経ち

(余が心優しいご主人様に生命を助けられたのは平成21年10月1日であり、その日が余の誕生日となりました)、

いまは80坪ほどもある素敵な和風家屋に棲み(すみ)幸せな日々を送り、ご主人様夫婦から大切にされています。


余が“いまこうして生かされていることに感謝”し、

陽が射すときは堀川の辺に咲いている桜を眺めみながら散歩しているのであります。

余のご主人様は、桜が咲く前に肺炎を患い、現在(いま)病院に入院されています。

余は心配であり元気をなくしているところです。

できるものなら病院へ駆けつけていきたい気持ちですが、余は猫であるのでそうもいきません。

余は、夜は主がいないベッドの傍らで、ご主人の帰りを待ちっています。
 

8;家族模様4 許すことができない ショックな出来事

2017-04-11 01:33:53 | 老いの光影
死はいつ突然襲っくるか それは誰もわからない。

桃子さんのように大動脈弁狭窄症というやっかいな心疾患による突然死もあるかもしれないが

人間誰しも 自分は

交通事故、火災など予期せぬことに遭遇し

今日か明日 [死ぬ] ということは考えていない。

若い人にとって 「明日の生命はないかもしれない」 

そんなことは頭の片隅にはなく 友人といまをエンジョイしている。

しかし 齢を重ね 老いていくと 死の影が後ろから忍び寄り近づいて来る。


「生命」「死」というテーマが

桃子さんの言葉から「ショッキングなこと」を聴くとは予想だにしなかった。

それは桃子さんが普段過ごしている居間に

猫が二匹棲んでいる。

お産間近のトラ猫のことが気になった。

何故かというと

桃子さん自身、身の回りのことはやっと行っているのに

産まれてくる子猫の面倒は誰が見るのか 

桃子さんに尋ねた。

彼女は躊躇う(ためらう)こともなく

「まだ(子猫の)眼が開かないうちに、

袋の中に入れ窒息させてから 両手で子猫の首を捻る。

そうすればあっけなく死んでしまう」。

 (「惨い」 「可哀想」 「許されない」 「人間じゃない」と心のなかで思いながら)

「その後どうするの?」と・・・。

「庭に面している道路側の角地に穴を掘って埋める」

 「桃子さんは埋めることはできないでしょ・・・」

「息子が埋めてくれる」

 「そうなんだ~」と言いながらも

ショッキングな話であり 子猫が余りにも可哀想!

子猫に罪はないのに・・・。


今度産まれてくる子猫も同じ運命を辿らせたくない!

宿った生命を自分の手で絞め殺すことに

躊躇いもない。

話しぶりからすると 過去においても・・・。

息子も母親に対し何も言わず 骸になった子猫を

(親に頼まれ)自宅の庭に埋めることに 何も感じないのであろうか

元教員であった桃子さん

現職の小学校教員をしている長男

子どもたちに生命の尊さを話してきた彼女

息子は 受持ちの子どもたちに 生命の大切さを話している

その話を聞いてから

彼女に対する見方が変わってしまった。

彼女の意外な一面を垣間見たことに

ショックであり 

桃子さんに話す言葉は見つからないまま

「・・・・」の一時が流れた


7;家族模様3 老人はいつ死が訪れるかわからない

2017-04-11 01:23:48 | 老いの光影
かかりつけ医 中村医師から

「桃子さんの病気は、大動脈瘤弁狭窄症という病名で重症にある」

「このような狭心痛、失神、心不全症状が現れ、そのままにしておくと予後不良になる」。


「 一般的には、生命予後は狭心痛が現れると5年、失神が現れると3年、

心不全が現れると最も悪く、生命予後は2年といわれている。

また、何らかの症状のある大動脈弁狭窄症では突然死の危険性がある」。

桃子さんのカルテに 大きな赤文字で重症で記載されてあったほど

大変な爆弾を抱えていたことは、ケアマネジャーから知らされていなかった。

私自身 「おどろきもものきさんしょのき【驚き桃の木山椒の木】」であった

(たいそう驚いたの意味)。

大動脈瘤弁狭窄症という重症な病気を抱えているとなると

血圧の測定や管理

それに入浴の入れ方なども関わるし

きちんと服用しているか等薬の管理も

把握していかねばならない

前述したような狭心痛、失神、心不全症状が現れたときには

早期受診の対応も求められてくる。

いつ死が訪れるかわからない、

それは桃子さんに限らず

要介護認定を受け 複数の疾病を抱えた他の老人も同じである。

今日生きていても

明日は生きているかどうかは

わからない。

神様だけが知っている。

「今日が最後かもしれない」

そんな想いを胸底にしまい

桃子さんといまを過ごす



6;家族模様2 子を想う気持ちは 死ぬまで変わらない

2017-04-10 05:01:34 | 老いの光影
桃子さんは 息子から「この人」と呼ばれ 冷たくされても

そんなことは気にせずにいる

86歳の齢を重ね 老いた親の身であっても

子を想う気持ちは 死ぬまで変わることはない

自分と同じ教員の道を継いだ息子は 

母親にとって誇りであり自慢の子でもある

夫の介護疲れも手伝い

腰痛、高血圧、喘息などの病を抱えていた

服薬はまったくできておらず

飲まなかったり飲んだりで

押入れには残薬が数えきれないほど無造作に置かれてあった

眠剤も2種類処方され

同じ薬のシートだけが破られ袋に入ってあった

頭が痛いということで 一度に眠剤を数錠服薬したことが原因で

意識朦朧(いしきもうろう)とされ

息子の車で総合病院に3回も搬送された(最近、9か月間のなかで)



歩行器がなければ家の中は歩けずトイレまで這って移動

何よりも三度の食事は摂っていなく

生命を維持する基礎代謝量は不足していたからなのか

いつも原因不明の熱発が続いていた

長男夫婦が同じ屋根の下に住んでいても

生活は別々であり

食事作りの他に洗濯も立つことはままならず

なされていなかった



部屋は南向きで陽は当たるが

足の踏み場もないほど

ゴミなのか必要なものなのか

本人でなければわからない状態で散乱

黒とトラ模様の猫が座布団の上で寝ていた

トラ猫は大きな腹をしていて まもなく子どもが産まれる

と 彼女は話してくれた

(このような状態にあっても彼女は要支援2のままであった)

担当ケアマネジャーに

「要支援の状態ではない」と話しても

「要介護になっても使うサービスは要支援と変わりないから必要ない」と。



デイサービスに来るときは 着替えも持たず

醤油で煮詰めたような色のタオル一本

下着はボロボロで 脱ぐと砂や小さなゴミが床に落ちてゆく

37.0℃台の熱があっても

週2回の「デイサービスには行く」と彼女は必至で訴える

普通ならば熱で体は怠いはず

それには理由があった

家には食べるものもない

老親が熱があることも知らない息子

お腹はかなり空いていた

「デイサービスに来てやっと(食に)ありつけた」と呟く彼女



午後2時過ぎ 熱は上昇

心配になったデイサービスの管理者 菜々は

ケアマネジャーと息子に電話をかけ

菜々が彼女のかかりつけのクリニックに付き添って行った

中村医師から重大なことを告げられた





5;家族模様1 母親を「この人」と呼ぶ

2017-04-10 01:23:48 | 老いの光影
誰しもまだ人間関係が希薄な段階のなかで

「在宅訪問」という名のもとに

居間まで上がり、話をされるのは

本当は「有難迷惑(ありがためいわく)」である」と思う

でも 連れ合いまたは親の介護のことで

相談に乗ってくれるというので

仕方がないと諦める

家の中を掃除して待つか

それとも「ありのまま」の散らかった状態で迎いれるか

人 さまざまである

介護の状況や生活の様子の一コマを見れるので

掃除をしないで「ありのまま」のほうがいい



大きな家に6人が住む教師家族 

ばあさんと長男夫婦、長男の子ども3人

じいさんは 数年前ばあさんの手厚い介護を受け

あの世に行った

じいさんもばあさんも 元教師

長男と長男嫁も小学校の教師

朝早く長男夫婦は学校へ出勤するので

ばあさんの朝食は用意されておらず

長男はばあさんのことを母親であるにもかかわらず

「この人」と呼ぶ



ばあさん お母さん 桃子さん の何れの名で呼ぶことはない

「この人」と呼ばれたばあさんは、怒ることもなく「・・・・」である

初対面で私、「この人と付き合うかも」「この人と結婚するかも」

そういうときの「この人」は瞬間的な出会いや運命を感じる

しかし、介護を受けるほど身体が弱ってきている母親には

「この人」と呼ぶ言葉はどういう気持ちででるのだろうか

一時の在宅訪問だけで

親子関係の隙間を窺い知ることはできない

他人の前では恥ずかしいというか 照れくさくて

「この人」と呼んでいるのかな、と思ってもみたが

デイサービス利用の日に桃子さんに聞いてみた

息子は周りに誰が居なくても

私のことを「この人」と呼んでいる

 

4;家に帰りたい 「死に水」2

2017-04-09 20:56:01 | 老いの光影
翌日 面会に訪れる。
みきさんは 療養室のベッドに臥せておられた。
ベッド脇に座ると、彼女は左側を向きなおり、
「家の水が飲みたい。嫁に水を持ってくれるように話して下さい」と
微かな声で私に話す。
最期にせめて我が家の水が飲みたいという、切なるみきさんの思い。

長男が面会に来ないのも
みきさんは不満を抱いていた。

老人保健施設を後にし、その足で谷川さんの家に寄った。
長男嫁から予想もしなかった話がされ、その話の内容に私は驚き、
谷川家族が抱えている問題の深刻さを初めて知った。
それは、71歳になる長男は、末期癌を患い医科大学付属病院に入院中にあり、
長男嫁、孫嫁たちは交代で看病していた。
家族にしてみれば、いま、弱くなってきたみきさんを
家に連れて帰る訳にはいかない。
しかし、みきさんは誰からも、
息子(長男)が、癌であることを知らされてはいなかった。
ただ、みきさんはわが家に帰り
施設のベッドのうえではなく(自宅の)畳の上で
臨終を迎えることを願っていた。


3;泪(なみだ)

2017-04-09 15:46:29 | 老いの光影
昨日20:00過ぎ 73歳になる長男からの電話

「母親が元気がなく かかりつけの病院にかかったところ

院長から肺が真っ白で、病院では治療の仕様がない。

入院しても悪くなるだけだから

家に連れて帰って面倒みたほうが幸せなのではないか」

長男は最後の院長の言葉が耳朶に残り

「家に連れ帰った」。

電話を受けた私は、「すですか。大変ですね。明日、4月8日 10時00分に自宅へキタさんの様子を見に訪問したいと思うので、ご都合よろしいですか」

と尋ね了解を得た。



4月8日 自宅からチョッと走ると那須連山から見え

薄ピンク色のショコラで奥州街道をまっしぐらに走り抜ける

今 キタさんの家に到着。

庭には小さな桜の木は花が咲いている。

居間には息子夫婦とキタさん キタさんの蒲団のなかでは白猫が丸くなって寝ている。

13年目に大腸癌の手術を受け、90歳まで生きられると医師から言われ

いま95歳になる。

痰が絡み 痰を出すこともできず咳き込みのときはとても苦しい表情をする。

食事や水分は余り摂れていない、という。

長男夫婦のもとで看取られるキタさんは幸せだが

「往診をして下さる医師や訪問看護などの協力がないと

看取りを行うことは厳しいですよ」

「ご家族が看取りを行うことを決めたなら、私もできる範囲のなかで

医療や介護等のサービスも紹介し、

家族の不安を少しでも減らしていけるよう一緒に頑張ります」、と。



私はキタさんの枕もとに寄り

キタさん手を握ると 彼女の掌から生命の温もりが伝わってきた

おでこに手をあてると平熱であった

血中酸素濃度の数値は 91 あり 一先ずホッとした

右側臥位で寝ていた彼女の左眼頭が潤み 泪が流れる

彼女の手を握り返し 泪を拭いた





2;家に帰りたい 「死に水」1

2017-04-09 15:43:27 | 老いの光影
小説『雪国』を書いた川端康成は、『眠れる美女』のなかにこんなことが書いてあった。

67歳の老人が「老人は死の隣人さ」と言葉を吐く場面があった。

現在は、平均寿命は女性は86歳、男性は81歳となり

昭和20年大前半に比べ

30年は長生きするようになった。

老衰のため98歳で亡くなった谷川みきさんのことを思い出した。



みきさんは、死期が間近いことを感じとったのか、

面会に行った私に訴えた。

「家(うち)に帰りたい。

このままでは死にたくても死にきれない。

・・・・家に帰りたい」。

介護老人保健施設を出た私は

長男嫁に、☎により

彼女の切なる願いを伝えたが、

答えは「いまは家に連れて帰ることはできない」。

望みが叶えられないことを知ると、

みきさんは拒食行為に出た。

柔和だった顔は、険しい顔の相に変わった。

1;老いの風景を描いていきたい

2017-04-09 14:58:29 | 老いの光影


今日の朝まで 星光輝『桜梅桃梨』のブログ名で
投稿を行ってきたのだが
pc操作ミスで「削除」してしまった・・・。
おまけに保存もしていなかった。
凡て泡となって消えてしまい茫然自失。

私が生れて育った処は
「外地」と呼ばれていた北海道のニセコ町
父母は自分が住んでいた処は
「外地」とは呼ばず素直に北海道と呼んでいた

津軽海峡の向こうにある本州のことは
「内地」と呼んでいた
チョッと変な話であるけれど
父母は「内地」と呼ぶことに何の疑問を感じていなかった

沖縄は「本土復帰」という表現があることから
本州のことを「本土」と呼んでいた

もう一つ
私が小学校5年生だったか、6年生だったか曖昧だが
社会科の授業で
日本海側の地域を「裏日本」
太平洋側の地域を「表日本」
と教えられた。

いま 日本海側の地域を「裏日本」と読んだら
テレビ等で大騒ぎになる。


私は 精神が未成熟のまま、
19歳の春に涙の連絡船で津軽海峡を渡り
「内地」の玄関口 青森駅に着いた。

あれから四十数年、時間が流れ去り
白髪混じりの頭髪になった。
我が身もやがて老いを向かえる身となり
日々老人介護に従事させて頂いている。

脳卒中などの病気で手足はままならず
杖を頼りにふらつきながら歩いている老人。
チョッと前に桜の花を観てきたことも忘れ、
自分は何をしようとしたかもわからなくなった老人。

要介護老人達に囲まれ
我が身の老いと重ね合わせ
在宅介護のなかに垣間見る「老いの風景」を描き
生きること老いること死することの意味を考えてみた