JR鎌倉駅から茅ヶ崎市の浜見平団地まで、
関東ふれあいの道・神奈川の⑤と⑥の2つのコースを歩いてきた。
スマホの万歩計によると、この日一日の総歩数は
32.914歩 22.8km 1.151㎉と、今までで最高。
両足の親指と人差し指の間に豆ができるほどだった。
まずは⑤稲村ケ崎・磯づたいのみちから
いつものように車を駅近くの駐車場に止め
駅まで10分ほど歩く。
海老名07:31~横浜08:58(相鉄本線特急)
横浜08:13~鎌倉08:40(JR横須賀線650円)
実際は↑の時刻より朝のラッシュのためか、相鉄線もJRも約3分遅れた。
8時50分
鎌倉駅東口から若宮大路に出て右折し、海へ向かって歩く。
鎌倉駅は相変わらず観光客多い。
特にこの時期は修学旅行などの小中学生が目立った。
一ノ鳥居、鶴岡八幡宮に向かって左側の歩道に
鎌倉幕府御家人、畠山重保邸跡と
屋敷跡の石碑、墓所と刻まれた宝篋印塔がある。
石造宝篋印塔(明徳4年銘)は高さ3.4mを超える
市内でも大型の宝篋印塔で、
畠山重保墓塔と伝えられている。
一ノ鳥居
写真を撮りながらのゆっくり歩きでも
鎌倉駅から20分で、国道134号・ 滑川の交差点に突き当たる。
信号を渡るとスタート地点の地点の由比ヶ浜に着く。
さくら貝の歌の歌碑
作曲家・八洲秀章氏が作った短歌をもとに土屋花情氏が作詞、
八洲秀章氏自身が作曲して誕生したもの。
当時の由比ガ浜は、さくら貝の絨毯といわれるほど美しく、
この歌碑は、環境保全とさくら貝の復活を念じて建立されたそうだ。
修学旅行か何かの集合地だったらしく、
次々と高校生ぐらいの生徒が集まってきた。
滑川を挟んで左側が材木座海岸
右側(生徒がいる方)が由比ヶ浜海岸
今日は殆ど海岸沿いを歩くことになるが、
いたるところに地震、津波に対する注意喚起の看板があった。
良いお天気で気温は上がっているはずだが、
海からのカラッとした風が心地良い。
近代的なオブジェから歴史ある石碑まで、
新旧混在していて鎌倉らしい。
上がった魚の取材や消防署員の訓練など、
サーファーだけでなく、色々な情景が目に飛び込んでくる。
遊歩道上には、観光地を示す方位盤のようなものがあったり、
小さな公園もある。
後ろを振り向き、10日前に歩いた大楠山をさがすが、わからない。
そうこうしているうちに稲村ケ崎についた。
鎌倉駅から約1時間歩いたことになる。
稲村ケ崎は由比ヶ浜と七里ガ浜の間にある小さな岬。
車の中からは何度も見ているが、
素通りばかりだったので、時間をとって見学することに。
新田義貞渡渉伝説では、海の中に黄金の剣を投じると、
海が割れて鎌倉を攻め落とせたという。
サングラスをかけていると、富士山が見えるが、
日の光が強すぎるのか、裸眼では見えない。
江の島の右側の陸地の先端、やや左上に、
うっすらと白く見えるのが富士山なのだが…
砂が全体的に黒っぽいのは地中に含まれる砂鉄によるもの。
ボート遭難の碑
明治43年1月23日、七里ガ浜の沖合いでボート
「箱根号」に乗った逗子開成中学校の生徒ら12人が遭難。
兄が弟をかばい、弟が兄を慕う姿をモチーフに、
家族や友人への友愛精神の象徴として建立された。
「真白き冨士の嶺~♪」の『七里ヶ浜の哀歌』は
彼らのために哀悼歌として作られた。
踏破記念の証拠写真を撮る。
小さな山だが、標高44.5mの山頂に登ってみる。
階段わきの大きなアカンサス。
花が咲くのは1~2週間先だろうか。
どんな花でも一期一会、出会った時に撮影しておかねば!
まだ青いサンゴジュと色づき始めたアジサイ
ヒルザキツキミソウの群生とドクダミ
「ロベルト・コッホの記念碑」
1908年(明治41)に弟子の北里柴三郎と鎌倉を訪れた
ドイツ人細菌学者ロベルト・コッホの記念碑。
展望台より江の島と富士山を望む。
夕暮れのシルエットはさぞ美しいことだろう。
かながわの景勝50選に選ばれているそうだ。
椅子に腰かけ、おやつタイム。
稲村ケ崎には30分滞在した。
稲村ヶ崎から小動岬(こゆるぎみさき)までの間が七里ケ浜。
距離にして2.9 km。
日本の渚百選に選ばれている。
遊歩道より稲村ケ崎を振り返る。
ズームで!
富士山がうっすらと写っている
七里ガ浜沿いには江ノ電が走っている。
踏切の向こうで多くの若人がスマホで写真を撮っているのが見えたので、
行ってみると、みな、お隣の国の人たちだった。
私も写真を撮ったが、そうだ、ここは息子が中学生のころ愛読していた
アニメ『スラム ダンク』に登場する鎌倉高校前の踏切だったのだ。
江ノ電・鎌倉高校前
日中、江ノ電は上り・下りともに12分に1本の間隔で運行しているそうだ。
しばらく留まり、電車を待った。
レトロな車両も・・・
この辺から江ノ電は狭い住宅地の中を走る。
小動岬まであと数百メートル。
(写真がいっぱいになったので後編に続く)