2011年4月20日。滋賀県山岳連盟会長をもしておられた
勝部先生が お亡くなりになられました。
4月3日に、守山の成人病センターにお見舞いに
行かせて頂いたおりは、お元気そうで色々お話をして下さいました。
昨年(2010年10月28日)にお仲間と八ケ岳に[散歩]に行った時、
オシッコが出なくなり 娘さんに迎に来てもらい病院に行くと
直ぐに手術となったそうです。その後何回か入退院を繰り返し
今は何も食べられない状態で点滴で栄養や抗がん剤を入れているとの事でした。
3月31日で88歳になられ、充分に生きたし思い残す事はない。
人生全てに感謝だったと 言っておられました。
思えば、私が小学校に行く前から我が家にスキーに来られ
中学を卒業する時、こんな山の中にいても大変だから
滋賀県に来て、うちの学校に入りなさいと言われ、
瀬田工やスターライト工業をお世話して頂き、
月に一度は、私の家に来なさいと、ずっと親代わりというより
親以上に面倒をみて頂きました。
4月8日付の消印で、ハガキを頂きました。
ハガキには、何時もの先生の字とは違い、苦しい中
一生懸命書いて下さった様子が窺え、胸熱くなりました。
お見舞いの時、加越国境の山の写真を持って行かせていただいたのですが
「加越は私の育ての山眺めていると涙がでます」と書かれてありました。
お見舞いから帰って来て、何も食べられないのなら、
先生がお好きだった、勝山の酒一本気をお送りさせて頂きました。
4月15日付で
ハガキを頂きました。
今度は、意識朦朧の中で 書かれたと思われる
内容でした。東山いこいの森を 明治の森と書かれたりしながら
それでも、私の事を心配して下さり、
大津山岳会の会長さんに、東山いこいの森の資料を送る様にと
書かれてありました。お亡くなりになる、5日前に
お書きになられたものです。
多分、今現在も、あの世から、私の事を心配しておられるのではと
思いますと。
先生に安心して頂ける様、気を引き締めて精進しなければと思うものです。
勝部先生が お亡くなりになられました。
4月3日に、守山の成人病センターにお見舞いに
行かせて頂いたおりは、お元気そうで色々お話をして下さいました。
昨年(2010年10月28日)にお仲間と八ケ岳に[散歩]に行った時、
オシッコが出なくなり 娘さんに迎に来てもらい病院に行くと
直ぐに手術となったそうです。その後何回か入退院を繰り返し
今は何も食べられない状態で点滴で栄養や抗がん剤を入れているとの事でした。
3月31日で88歳になられ、充分に生きたし思い残す事はない。
人生全てに感謝だったと 言っておられました。
思えば、私が小学校に行く前から我が家にスキーに来られ
中学を卒業する時、こんな山の中にいても大変だから
滋賀県に来て、うちの学校に入りなさいと言われ、
瀬田工やスターライト工業をお世話して頂き、
月に一度は、私の家に来なさいと、ずっと親代わりというより
親以上に面倒をみて頂きました。
4月8日付の消印で、ハガキを頂きました。
ハガキには、何時もの先生の字とは違い、苦しい中
一生懸命書いて下さった様子が窺え、胸熱くなりました。

お見舞いの時、加越国境の山の写真を持って行かせていただいたのですが
「加越は私の育ての山眺めていると涙がでます」と書かれてありました。
お見舞いから帰って来て、何も食べられないのなら、
先生がお好きだった、勝山の酒一本気をお送りさせて頂きました。
4月15日付で

ハガキを頂きました。
今度は、意識朦朧の中で 書かれたと思われる
内容でした。東山いこいの森を 明治の森と書かれたりしながら
それでも、私の事を心配して下さり、
大津山岳会の会長さんに、東山いこいの森の資料を送る様にと
書かれてありました。お亡くなりになる、5日前に
お書きになられたものです。
多分、今現在も、あの世から、私の事を心配しておられるのではと
思いますと。
先生に安心して頂ける様、気を引き締めて精進しなければと思うものです。
