WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

満月の夕

2011年04月17日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 306●

酒井俊 

満月の夕(single version)

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 やはり、どうしても聴きたくなってしまった。まだ早い。やめておこうと何度か思ったが、この曲を聴きたいという衝動はどうしても抑えられなかった。

     *     *     *

風が吹く港の方から  焼けあとを包むようにおどす

悲しくてすべてを笑う  乾く冬の夕べ

時を越え国境線から  幾千里のがれきの町に立つ
この胸の振り子を鳴らす  今を刻むため

飼い主をなくした柴が  同朋とじゃれながら道をゆく
解き放たれすべてを笑う  乾く冬の夕べ

ヤサホーヤうたがきこえる  眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ焚き火を囲む  吐く息の白さが踊る
解き放ちていのちで笑え  満月の夕べ

星が降る 満月が笑う  焼けあとを包むようにおどす風
解き放たれすべてを笑う  乾く冬の夕べ

ヤサホーヤうたがきこえる  眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ焚き火を囲む  吐く息の白さが踊る
解き放ちていのちで笑え  満月の夕べ

     *     *     *

 「満月の夕」は、1995年の阪神・淡路大震災の惨状と復興へ向き合おうとする被災地の人々の姿を歌った歌であり、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とヒートウェイヴの山口洋によって作られた。私は、地元のジャズ喫茶で時々行われるライブを見ていた経緯から、歌手・酒井俊がカヴァーしたものでこの曲を知った。今でも、よく聴くのは酒井のものである。ソウル・フラワー・ユニオンとヒートウェイヴのものでは、若干歌詞が違っており、それぞれ賛否があるだろう。酒井の演奏では、以前も記したように、アルバム「四丁目の犬」に収録されたものを最も好むが、2003年に発表されたこのシングルヴァージョンも悪くはない。全体的にサウンドが洗練され、その意味では生々しさや荒々しいさが影を潜めてしまっているが、その分良くも悪くも耳ざわりの良いものになっている。ただそんな中でも、酒井俊の歌は圧倒的な迫力を感じさせる。さすがである。

 もっと概念的な歌だと思っていた。大震災という状況を背景に、人間の哀しみや優しさや自由や解放を歌ったものだと考えていた。大津波を経験し、この歌はもっと生々しい歌だと思った。例えば、「解き放ちていのちで笑え」という歌詞の「いのち」は、生命の根源のようなものかと考えていたが、生命そのものではないかと考えるようになった。「ヤサホーヤ」と歌い踊るのは、解放を表すのではなく、そうしなければ自分を保てないからそうするのであって、その中から原初的な解放の感覚がかすかに見え隠れするのではないか、と考えるようになった。

 どうしようもない現実に身もだえしながらただ立ち尽くし、すべてを失うことによって解放され、その哀しみの中で、ほんの一瞬解き放たれる。そんな瞬間に言葉の力が触れることができた、そんな歌詞なのだと思う。

 阪神大震災の日の夜は、満月だったという。そういえば、今夜も満月だ。私の街は、今夜、月が明るい。


ステレオ太陽族

2011年03月06日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 304●

Southern All Stars.

Stereo Taiyo-Zoku

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 妻が電話の勧誘攻勢に負けて契約してしまったwowwowで、昨日、桑田佳祐の「MUSICMAN」という番組をやっていた。桑田氏自身やその周辺の人々へのインタビューと新アルバム「MUSICMAN」のビデオから構成された番組だった。ちょっと興味を惹かれて見たのだが、結局あまりに冗長だったので途中で視るのをやめてしまった。飲みなおしにと、書斎のこもってこの古いアルバムをしばらくぶりに聴いた。

 サザンオールスターズの1981年作品、『ステレオ太陽族』である。本当によくできたアルバムだと思う。すごいアルバムだといってもいい。いくつかのヒット曲を除けば初期のサザンしか知らない私が言うのでは説得力がなかろうが、サザンオールスターズの最高傑作と断じだい。ジャズ・ミュージシャン八木正生の全面協力によって、編曲面が大幅にパワーアップされると同時に、ジャズテイストが加味されたこのアルバムは、間違いなくサザンオールスターズの新生面を開いた作品だ。サウンド的にも、楽曲のクオリティーにおいても、音楽的に飛躍的に進歩をしていると思う。

 このアルバムを最初に聴いたのは、学生時代、友人の下宿においてだったように記憶している。テレビをもたなかったその頃の私は、友人たちと下宿を行き来し、汗と精液の染みついた万年床を中心に、足の踏み場もないほど散らかった四畳半の部屋で、安酒を飲みながら、社会や歴史や哲学や文化について不毛な議論をしたものだった。私にとってはかけがえのない日々であるが、どうどう巡りの、不毛で空虚な日々だった。その蹉跌とルサンチマンに溢れたデカダンスな空間の背後に、ある日このアルバムが流れていた。ポップでジャージーなこの作品が、ある意味では我々を袋小路から救い出してくれたのではないか、と今は思える。

 村上龍はかつてサザンオールスターズについてのエッセイで、次のように書き記した。

「歌は革命をおこせない。しかし、歌は自殺をとめる力をもっている」

 1981年……、戸外では、"明るい"80年代が動き出していた。


ザ・サウンド

2011年02月23日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 300●

Stan Getz

The Sounds

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 2月も下旬だが、今月はじめての更新だ。特に忙しかったわけではない。「今日の一枚」もやっと#300になるので、何か記念碑的な作品を取り上げ、ちょっとはましな文章を書いてみようかなどと夢想していたら、候補作が次々思い浮かんでしまい、ひとつにしぼりきれずに今日に至った。まったく、いつもながらの決断力の無さである。結局、メモリアルなことを考えるのは止めにしようと思いなおし、数日前に聴き、たまたま机においてあったCDを取り上げることにした。

 紹介するまでもない名盤である。スタン・ゲッツの1950-51年の録音作品、『ザ・サウンド』である。クールジャズのスターとして活躍していた頃のゲッツの名演を集めたものだが、永らくCD化されず、幻の名演扱いされていた。数年前だったろうか、東芝EMIがワーナーミュージックから権利を譲り受けてオリジナルCD化され、幻扱いは解消された。

 演奏時間が短すぎるという歴史的制約を除けば、本当にいいアルバムである。ゲッツのアドリブがよく歌うからだろうか、聴きやすい。クールだがどこか怪しげな雰囲気を醸しだすサウンドは、深夜に書斎にこもってひとり静かに聴くのにうってつけのアルバムである。ひとり静かに聴きながら、想像を膨らまし、あるいは考える。音楽のことや、歴史のことや、形而上学のことについてだ。至福の時間である。こういった時間がないと、日常生活の心のゆがみは修正されない。その背後でこのアルバムがなっている。その意味で、「ザ・サウンド」というタイトルは、私にとって本当にしっくりくる言葉である。

 名演の誉れ高い「ディア・オールド・ストックホルム」は、やはり何度聴いても素晴らしい。ゲッツの展開はもちろん見事であるが、出だしのピアノの神秘的な響きは何だ。そして、一音一音が研ぎ澄まされたピアノソロの美しさは一体何だ。こういうピアノを弾くから、アル・ヘイグは好きだ。そういえば、この「今日の一枚」でアル・ヘイグを取り上げたことはなかったかも知れない。そのうち取り上げてみようか……。


スタン・ゲッツ・プレイズ/あるいは身体にやさしい音楽

2011年01月30日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 299●

Stan Getz

Stan Getz Plays

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 昨日・今日と体調を崩してしまった。風邪をひいたようだ。36度台後半から38度程度まで熱が上がったり下がったりで、身体が全体的にだるい。休養を決め込んでベットにもぐりこみ、音量を絞って遠巻きに音楽を聴いた。ああ、いい感じだ……。

 かけたCDは、スタン・ゲッツの1952年録音作品、『スタン・ゲッツ・プレイズ』だ。子どもに優しく接する印象的なアルバム・ジャケットそのままに、優しさに満ち溢れたサウンドだ。スムーズで歌心に満ちたアドリブと、なめらかでやさしい音色はいつものことであるが、このアルバムでは、いつにもまして、原曲のメロディーを尊重した演奏が展開される。弱った身体にやさしいアルバムである。

 じっと目をつぶって聴いていたら、以前読んだ村上春樹氏のゲッツ評が頭に浮かんだ。「僕はこれまでにいろんな小説に夢中になり、いろんなジャズにのめりこんだ。でも僕にとっては最終的にはスコット・フィッツジェラルドこそが小説(the Novel)であり、スタン・ゲッツこそがジャズ(the Jazz)であった。」(和田誠・村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』新潮文庫) 

 実に、印象的なことばである。周知のように、村上春樹氏は、大のゲッツ好きであるが、ゲッツに対する過剰ともいえる思いをいつになく熱く語った印象的な一文である。このエッセイの中で、村上氏は例えば次のように語る。「しかし生身のスタン・ゲッツが、たとえどのように厳しい極北に生を送っていたにせよ、彼の音楽が、その天使の羽ばたきのごとき魔術的な優しさを失ったことは、一度としてなかった。彼がひとたびステージに立ち、楽器を手にすると、そこにはまったく異次元の世界が生まれた。」、「そう、ゲッツの音楽の中心にあるのは、輝かしい黄金のメロディーだった。どのような熱いアドリブをアップテンポで繰り広げているときにも、そこにはナチュラルにして潤沢な歌があった。彼はテナー・サックスをあたかも神意を授かった声帯のように自在にあやつって、鮮やかな至福に満ちた無言歌を紡いだ。」

 クールな村上氏にしては、過剰ともいえる程多くの言葉を費やしたスタン・ゲッツへのオマージュである。

 この思い、うらやましい程だ……。


この神経症的な感じは何だろう

2010年11月28日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 294●

Sonny Criss

Saturday Morning

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 しばらくぶりに、今週一週間は毎日upした。何年ぶりだろうか。そんなわけで、今日の2枚目である。サザンオールスターズやビートルズばかりかけていたら、ああジャズが聴きたいと身体が要求しているのがわかった。ジャズらしいジャズが聴きたい。

 ……ああ、ジャズだ。いい。やっぱり、ジャズはいい……。

 パーカー派のアルト・サックス奏者、ソニー・クリスの1975年録音作品『サタディ・モーニング』、彼の晩年の作品だ。70年代の作品だけあって録音がいい。楽器の音がひとつひとつ鮮明である。

 若い頃のソニー・クリスは、流麗で艶やかだが、饒舌で多くを語りすぎる傾向があった。それは、強迫神経症的でさえあり、何かを語らずにはいられない、あるいはすべてを語りつくさずにはいられない、といった程だった。

 そこにいくと、この晩年の作品はフレイジングに因数分解がなされ、かつてに比べてだいぶ音数も整理されている。艶やかで流麗なフレイジングはそのままに、溢れるような歌心とちょっと翳りをおびた音色が全編に充溢したいい作品に仕上がっている。

 しかしそれにしても、この神経症的な感じは何だろう。考えすぎだろうか。音数はかなり整理され、スローな曲では哀感や翳りさえ感じさせるのに、演奏が何かにせかされているように思えるのだ。何というか、落ち着きがないのだ。音数は少なくても、何かにせかされ、もっともっと、はやくはやくと彼の心が語っているようだ。《タメ》がないのではないか。静かなスローテンポの曲に、《タメ》がないから、深みのようなものが感じられない。フレイズは哀感があるのに、落ち着いた枯れた深みのようなものが感じられないのだ。

 この録音から2年後の1977年、ソニー・クリスはロサンゼルスでピストル自殺するのだが、wikipediaは胃がんの病苦に耐えかねた結果だ、と記している。


タイニー・バブルス

2010年11月27日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 292●

Southern All Stars.

Tiny Bubbles

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 先日、金子晴美の『SPECIAL MENU』を聴いてから、何だか急に懐かしくなり、サザンオールスターズの古いアルバムをいくつか聴いてみた。私は、サザンの良い聴き手ではない。ずっとフォローしてきたわけではないからだ。1980年代後半以降、テレビやラジオから流れてくる以外はほとんど聴いたことがない。興味がなくなってしまったのだ。確かに、桑田佳祐の作曲能力は確かに向上していると思うし、サウンドも洗練されていった。けれども、何というか、きれいすぎるのだ。予定調和的といってもいいかもしれない。何か新しいことをやってやろうという気概が伝わってこず、初期の作品がもっていたワクワク感やドキドキ感を感じることができなくなったのだ。

 さて、サザンオールスターズの3枚目のアルバム、1980年作品の『タイニー・バブルス』である。よくできたアルバムだ。荒削りではあるが、革新的で清新な気風に満ちている。何か新しいことをやってやろうという爽やかな遊び心が充溢している。当時、サザンは、“FIVE ROCK SHOW”と銘打った企画をおこなっていた。テレビなどには一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中し、5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出すというものだった。メディアへの露出がなくなったためヒット曲はなくなったが、当時桑田佳祐がラジオで「オールナイトニッポン」のパーソナリティーをつとめており、その中で、アルバムの制作状況や音楽への思いを語り、時には新曲の発表も行っていた。当時の私は、それを聴くのが楽しみだった。

 ⑤涙のアベニュー。不思議な曲だ。先の「オールナイトニッポン」で桑田が4コードブルースといってこの曲を紹介したのを今でも憶えている。その時にはさほどいい曲だとは思わなかったが、年齢を重ねるごとにこの曲が心にしみてきた。サビの部分か何ともいえずいい。今では、サザンの中でも最も好きな曲のひとつである。⑨C調言葉に御用心。最高にゴキゲンな曲である。ああ最高だ。低い声で歌う出だしの部分がいい。そのトーンが身体の何かに共鳴し、アップテンポの曲なのに心が落ち着く。⑪働けロックバンド。テレビ出演に追われていた彼らの苦悩と哀しみが表出されており、ある意味コミカルだが、不思議な哀しみを湛えている。歌詞に聴き入ってしまう。

 アルバム全体に、あの1980年代初頭の空気が充溢している。荒削りではあるが、「快作」いや「傑作」というべきだと思う。たまには、昔の曲を振り返って聴くのも悪くない。


ラバーズ・コンチェルト

2010年04月05日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 248●

Sarah Vaughn

Best Collection

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 サラ・ヴォーンの『ベスト・コレクション』というCDがここにある。今は次男のものだ。株式会社タスクフォースという会社が発売した廉価盤である。定価は2600円とあるが、もっと安く買ったように思う。カーステレオで聴くために、ずっと以前、CDショップではなく、どこかのホームセンターで買ったもので、その後、次男にあげた。有名曲ばかり集めたもので、ちなみに収録曲は次の通りだ。

   1.煙が目にしみる
   2.マイ・ファニー・ヴァレンタイン
   3.スターダスト
   4.オール・オブ・ミー
   5.セプテンバー・ソング
   6.ミスティー
   7.ラバーズ・コンチェルト
   8.酒とバラの日々
   9.イエスタディ
  10.イパネマの娘
  11.ミッシェル
  12.シャレード
  13.ムーン・リバー
  14.ラブ
  15.いそしぎ
  16.誰かが誰かを愛している

 今春、中学生になる次男が、1年ほど前、何かの学校行事でラバーズ・コンチェルトをリコーダーで演奏することになり、毎日家で練習していたので、「その曲を有名な歌手が歌っているのを聞かせてやろうか」ともちかけ聞かせてやると、「お父さん、このCD、ちょうだい」と、めずらしくおねだり………。廉価盤なのでまあいいかと進呈したところ、その日以来、次男は毎日このCDを聞きはじめた。はじめはラバーズ・コンチェルトだけだったが、そのうち他の曲も繰り返し聴くようになり、私がダビングしてあげた同じくサラ・ヴォーンの『サラ・ヴォーン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』やマイルス・デイヴィスの『ワーキン』『カインド・オブ・ブルー』なども聴くようになるなど次男の興味はどんどん深みにはまっていった。小学生がJAZZを聴く光景はちょっと奇妙である。

 ところが、学校で放送委員をつとめる次男はさらにエスカレート、自分が担当する毎週火曜日の昼休みの放送で、なんとJAZZを流しはじめたのだ。ヒット曲やアニメソングを欲する小学生たちに不評で迷惑になりはしないかと心配していたのだが、先日の卒業式の際、複数の先生方から「毎週火曜日の放送で素敵な曲がかかるのを本当に楽しみにしていました」というお話をいただいた。肝心の小学生諸君の感想はさだかでないが、先生方からだけでもそういっていただき、ほっと胸をなでおろしたしだいである。 

 ところで次男であるが、最近はインターネットでYou Tube を自由にあやつり、勝手にいろいろな曲(JAZZ)を探しては聴いている。げに恐ろしきは子どもである。

 


フォー・クワイエット・ラヴァーズ

2010年03月31日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 244●

Teddy Wilson

For Quiet Lovers

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 今日は、久々のオフ。 妻は仕事、長男は部活動で、家には春休み中の次男と二人きりだ。ふと思い立って、次男にちょっと日帰り温泉でも行くか、と聞いてみたら、「行く、行く」との返答。「おかあさんには、秘密だぞ」と口どめをして、男同士の共犯関係を構築し、ファースト・ブレイク(速攻!)で、車で1時間半ほどの岩手県は一関市にある「山桜・桃の湯」に行ってきた。なかなかに多彩な露天風呂・内風呂をもち、眺めも上々、設備もモダンかつ清潔で、お湯は温泉ソムリエ氏によってきちんと管理され、わずか2時間の滞在であったが、心身リフレッシュ、とてもゆったり と寛いだ気持ちになった。ただ、帰り際、入場システムをよく理解せずおろおろする3人組のおじいさん・おばあさんに対する、カウンター・レディーの親切さを欠いた、ややヒステリックな対応を目にし、ちょっと嫌な気分になってしまった。人々に寛ぎを与える仕事には、ちょっと面倒な客でも、優しさと誠実さが必要ではなかろうか。

 さて、今日の一枚は、テディ・ウイルソンの1955年録音作品、「フォー・クワイエット・ラヴァーズ」である。最近話題の「verveお宝コレクション」で入手した。限定特価1,100円也である。ご多分に漏れず、ジャケ買いである。美しいジャケットだ。その美しさゆえか、多くのweb 通販では早い段階で入手困難となっていたようだ。なぜかamazonだけでは品切れではなく、なんとか購入できた次第である。

 決して革新的な演奏とはいえず、圧倒的な感動を呼び起こすような作品でもないが、私は結構好きである。音の粒のそろった安定した演奏であり、安心して聴くことができる。ジャケットのカップルのように喜びに溢れた、小気味よいスイング感である。軽い哀感もある。ジャケットを見ながら聴くと、恋の喜びのウキウキした感じが表出されているようでもあり、何だかほほえましくなってくる。

 しかし、それにしてもLPが欲しい。美しいジャケットを愛でるには、CDはやはり、あまりにも小さすぎる。(ジャケットをクリックすると、少しだけ大きくなります。ご覧ください。)


Straight Ahead

2009年03月01日 | 今日の一枚(S-T)

◎今日の一枚 234◎

Stanley turrentine

Straight Ahead

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 なぜ、これがCD化されていないのだろうか。

 私の所有する音楽媒体にはLPやCDのほかに大量のカセットテープがあり、その中にはかつてよく聴いたお気に入り盤も多く含まれている。カセットテープの多くは、若い頃お金がなくてLPレコードを思うように買えなかった時代のものであり、友人から借りたものやレンタルしたものをダビングしたものだ。もちろん、その後改めてCDやLPを購入したものも多いが、中には今日までそのままのものも少なからず存在する。CD機器をを導入し、経済的に以前より多くのCDを購入できるようになるにつれて、それらのカセットテープを聴く頻度は減り、いつしかかえりみられなくなってしまった。

 午後の暖かい日差しの中、次男とともにリビングでうたた寝をし、物音に目覚めてまどろみの中にいると、頭のずっと奥の方でメロディーが流れていた。すぐには曲名は思い出せなかったが、そのメロディーを口ずさみながらしばらく考えてみると、どうもスタンリー・タレンタインのもののような気がして、もっているLP、CD、カセットテープを片っ端からあたってみた。

 スタンリー・タレンタインの1984年録音盤『ストレート・アヘッド』、新生Blue Noteの最初期の作品である。まどろみの中で聞こえてきたメロディーは、このアルバムの中の一曲だ。若い頃、ウォーキング・ステレオで何度も何度も聴いたアルバムである。ほとんどリアルタイムで聴いたのだ。恐らくは発表されて比較的早い時期に、レンタルしたLPをダビングしたものだと思う。何度も何度も繰り返し聴いた作品なのに、CDを買わなかったばかりに、カセットテープのままラックの片隅に置き去りにされてしまったわけだ。何年ぶりだろうか、カセットデッキのトレイにのせてみると、次から次へと本当に懐かしい印象的なサウンドがよみがえってきた。懐かしいだけではない、演奏自体が大変優れた作品だ。評論家筋の意見はよくわからないのだが、少なくとも私の持っているスタンリー・タレンタインの作品の中では最高傑作だと考えている。新生ブルーノート時代のスタンリー・タレンタインは、よりフュージョン色の強いサウンドに変化していったが、「ボステナー」といわれた彼の流麗なメロディラインは、フュージョンでも十二分にその真価を発揮している。また、純正ジャズでならしたその流れるようなアドリブ展開は、ブルージーでファンキーなフィーリングとあいまって、退屈で刺激の少ない、他の凡百のフュージョンサウンドとは明らかに一線を画すものとなっている。カセットテープケースに記されたメモを見ると、サイドメンもすごい。George Benson(g)、Ron Carter(b)、Jimmy Madison(ds)、Jimmy Smith(or)という編成だ。特にGeorge Benson のギターがいい味をだしている。写真でよく見る、ちょび髭のスケベそうな George Benson の顔は気持ち悪いが、このようなギターを弾く George Benson は本当に凄いと思う。豪華なサイドメンたちをバックに、スタンリー・タレンタインは、スリリングで刺激的で情感溢れるプレイを展開する。最高傑作と考える所以である。

 そんなわけで、これはCDを買っておかなくっちゃと思い、webで注文しようとしたのだがどういうわけかCD化されていないようだ。一体どうなっているのだろう。まったく、失望だ。何かの権利の問題があるのだろうか、あるいは批評家筋の評価が低いのだろうか。しかし、私としてはこのアルバムがCD化されていないことについては理解しがたい。この現実には承服しかねる。ただ、誰が何と言おうともいっておこう。これは本当にすぐれたアルバムである。

 まどろみの中で浮かんだ曲とは、B-② The Longer You Wait だ。まどろみの中で聴くサウンドとしてはまったくふさわしい。


Remembering Tomorrow

2009年01月22日 | 今日の一枚(S-T)

◎今日の一枚 222◎

Steve Kuhn

Remembering Tomorrow

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 寒い日が続いている。寒いのは嫌だが、空気が澄んでいる。とても清清しい気持だ。こういう日には、やはりECMサウンドだ。

 端正で美しいピアノの響きだ。こういうの好きだなあ。スティーブ・キューンの1995年録音盤、『リメンバリング・トゥモロウ』。タイトルもなかなかいいではないか。キューンが約10年ぶりにECMにカムバックした作品である。まさしくECM的サウンドだ。近年のvenusレーベルでの骨太でノリのいいキューンも嫌いではないが、このアルバムのキューンは繊細で今にも消え入りそうな、しかし研ぎ澄まされた音だ。同じピアニストなのにレーベルによってこうもちがうのだから不思議なものだ。私の知っている限りにおいて、スティーブ・キューンの最高傑作ではないだろうか。澄みきった、それでいてどこか墨絵のように霧のかかったサウンドに耳を傾けていると、心まで浄化されてくるような気になる。

 時折ピアノをあおるようにに割り込んでくるJoey Baronのドラムが目立っている。録音的にも鮮度が良く、なかなかスリリングなのだけれど、シンパルがカラフル過ぎて、あるいはタムが強すぎてちょっとうるさいなと思うこともある。いずれにせよ、存在感のあるドラムであることは間違いない。

 寒い冬の景色を見つつ、暖かいココアでも飲みながら聴きたい一枚である。


土曜日の夜

2009年01月19日 | 今日の一枚(S-T)

◎今日の一枚 220◎

Tom Waits

The heart Of Saturday Night

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 妻は仕事で泊りがけの出張だ。介護中の妻の母も今夜はショート・ステイ。子どもたちもどういう訳か今日ははやく眠りについた。そんなわけで、今日は家でひとりじっくり飲む酒だ。そんな酒は、妙に回りが速い。まるで、「土曜日の夜」だ。

 頭の中は、先週の土曜日にあった、HCを務める高校女子バスケットボールチームの県大会の試合のことだ。少人数の弱小チームで故障者を抱え、棄権も考えたが、結局何とか出場することができた。最後の一週間、選手たちの動きはしだいに良くなり、調子を上げていったのだ。とはいっても、客観的にみれば、最悪の状態から、調子が上向いたといった程度なのだが……。結果は、相手チームに111点を献上する惨敗だった。相手は都会の強豪チームなので敗戦は仕方ないとしても、問題はチームの持ち味のディフェンスが機能しなかったことだ。相手がうまい以上に我々のディフェンスがだめだった。故障者の起用方法を考えすぎるあまり受身にまわってしまった私の態度を選手たちが敏感に感じ取り、本来の積極的なディフェンスができなかったのだ。スポーツの指導とは難しいものだ。言葉でどういおうとも、選手たちはそのニュアンスを敏感に感じ取り、微妙にプレーに影響するのだ。4Qのはじまる前、選手たちに私の戦術の失敗を謝り、初心に返って「ディフェンス・リバウンド・ルーズボール」のバスケットボールをしよう。我々はそれで勝ちあがってきたのだから……」と語りかけた。勝敗はすでに決し、相手は控えの選手を投入した時間帯だったが、最後の10分間、私のチームの選手たちは、コートいっぱい走り回り、懸命にボールを追いかけ、自分たちのバスケットボールを示してくれた。

    ※   ※    ※

 酔いどれ詩人トム・ウェイツの人気を決定付けたセカンドアルバム『土曜日の夜』、1974年作品だ。私のような単純な男が、ひとり酔っ払って聴くにはぴったりのアルバムである。本当に酔っ払っているようなしゃがれた声で歌われるメロディーたちには、人生のさみしさやせつなさが漂い、それでいてどこかやさしい温かさがある。全編に流れるスウィング感、印象的なピアノの響き、哀愁の管楽器、そしてトム・ウェイツの味のある歌声。よくできた作品である。私はこういうのが結構好きだ。今日はもう2回もとおして聴いている。どれも素晴らしい佳曲ぞろいだが、やはりミーハーな私は、⑧ Please Call Me Baby に涙だ。説明不能な何かが心にグッと迫ってくる。身体はリズムと同化し、心はメロディーと解け合う。このようなことを「感動」と呼ぶのかも知れないが、私はそんな言葉では表現したくない。そう表現することによって、それは「感動」でしかなくなるからだ。

 ひとり酒を飲みながらトム・ウェイツを聴くなんて、いわば「クサい」話だ。ステレオタイプでありきたりの、できの悪い絵に描いたような情景である。けれど、人間はそういった「物語」を必要とすることもあるのだ。壊れそうな自分自身を支えるために……。


クロージング・タイム

2008年01月14日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 207●

Tom Waits

Closing Time

Watercolors0003  女手ひとつで田舎の小さな酒店を経営してきた妻の母親が、昨年末をもって店じまいをした。今夜はその慰労のため、妻たちはささやかな温泉旅行に出かけており、私は自宅にひとりだ。久しぶりに大音響で音楽を聴くチャンスだったのだが、初売りで購入した大型テレビで、日中に録画しておいた女子バスケットボールのAll Japan 決勝(富士通 vs JOMO)を繰り返し見たため、深夜のいまになって自室でひとり静かに音楽を聴いている。 

 《酔いどれ詩人》、トム・ウエイツの1973年作品『クロージング・タイム』、彼のデビュー作だ。シンプルなサウンドが歌の芯の部分を際立たせている。《酔いどれ詩人》というけれど、今聴くと、このころのトム・ウエイツはまだそれほどの《酔いどれ》感はなく、詩と歌を愛する素朴な男といった感じだ。しかし、だからこそ時々、歌心溢れるこのアルバムを無性に聴きたくなるのかもしれない。シンプルなサウンドだが、いやそれゆえに、メロディーの輪郭が際立ち、トム・ウエイツはひとつひとつの言葉を噛み締めて歌っているようだ。多くのミュージシャンがカヴァーした名曲ぞろいのアルバムであるが、私はやはり「グレープフルーツ・ムーン」の詩と旋律が心に響く。

 物悲しく美しい旋律を聴いていたら、若くして伴侶を亡くし、女手ひとつで娘たちを育ててきた妻の母の哀しみを思い、人の生きる証について考えて込んでしまった。我々は誰でも人生というキャンバスにそれぞれの絵を描き、それを時代に残す。妻の母がいま振り返る、彼女の描いた生きた証の絵とはどのようなものなのだろうか。

 『クロージング・タイム』(閉店時間)……。まったく偶然なのだが、今夜聴いている音楽は、妻の母へ捧げる歌のようだ。


スウィート・レイン

2007年08月25日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 192●

Stan Getz

Sweet Rain

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 まだまだ残暑は厳しいが、さすがに夕方になると過ごしやすくなってきた。私の家の周りでは、朝には蝉の、薄暗くなると秋の虫たちの鳴き声が聞こえてくる。こんな時には、去り行く夏を思いながら、爽やかなサウンドを聴きたいものだ。

 そう思って取り出したのは、スタン・ゲッツの1967年録音盤『スウィート・レイン』だ。いつものごとく情感豊かで流麗なゲッツのテナーもさることながら、やはり新進気鋭のチック・コリアの優雅で軽やかなピアノが耳をひく。チックはこのアルバムで初めて広くファンに知られるようになったのだ。私は若い頃、結構熱心なチックのリスナーだったのだが、年をとるにしたがってあまり聴かなくなってしまった。なぜだかよくわからない。チックの演奏技術が優れていることはもちろん否定すべくもないし、チックの演奏がよりダイナミックに進化していることも理解できるのだが、いつの頃からかその作品をターンテーブルやCDトレイにのせることが極端に少なくなってしまったのだ。不遜な言い方だが、しいて言えば、私にとって「退屈」な音楽になってしまったといったらいいだろうか。しかし、このアルバムの時代のチックは、今聴いても素直に感動できる。才気に溢れるその優雅な指さばきからは、きらきらと光る水滴が滴り落ち、まぶしく弾けるようである。

 アルバム全体に優しく、瑞々しい雰囲気が漂っている。私見によれば、優しさはゲッツが、瑞々しさはチックが担当している。

 気分の良いアルバムだ。


エクリプソ

2007年07月04日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 176●

Tommy Flanagan

Eclypso

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 トミー・フラナガンの快盤『エクリプソ』、Enjaレーベルから発表された1977年録音盤である。1950年代にマイルスやロリンズはじめ数多くのミュージシャンと競演し、名盤の影にトミフラありといわれた男だが、意外なことに、1957年録音の名盤『オーバーシーズ』以来リーダー作の機会に恵まれず、次のリーダー作は1975年の『ア・ディ・イン・トーキョー』であった。まあ、トニー・ベネットやエラ・フィッツジェラルドの伴奏者として活躍はしていたわけであるが……。

 大好きなアルバムである。人によっては超のつく名盤との評価もある。ただ、私としては、良質な 《フツーの》 ピアノ・トリオアルバムといいたい。《フツーの》 とは、作品のレベルが普通レベルということではない。奇をてらわない、自然体のピアノ・トリオ作品だということだ。このような作品を《 超 》をつけて神格的な地位に祀り上げることには反対だ。この作品を聴くと、私はジャズ喫茶の煙草のけむりとコーヒーの香りを思い出す。私がジャズ喫茶に入り浸った1980年代前半には、まだ前代の激しいジャズのなごりが残る一方、このアルバムのような良質のフツーのジャズが多くかけられていた。このアルバムに出会ったのも、今考えれば渋谷の百軒店にあった《 音楽館 》だったように思う。《フツーの》 ジャズがかかると、じっとそれに聴き入り、あるいは立ち上がってアルバム・ジャケットをチェックするような人が多かったように思う。タフでハードな重苦しい時代を終え、人々は重い荷物を下ろして、フツーのジャズをフツーに聴きたかったのかも知れない。

 さて、『エクリプソ』である。なんと楽しげな演奏。なんと軽やかなスウィング感だろう。音が飛び跳ねるような躍動感がたまらない。心はウキウキ、ワクワクだ。スピーカーの向こうに、音楽を演奏することの喜びに溢れた1977年の2月4日の演奏者たちの姿が、ありありと浮かび上がってくる。ウキウキ、ワクワクの感情は時代を超えるのだ。

 ジョージ・ムラーツ……。すごいベースだ。ドライブするとはこういうことをいうのだろう。トミフラも、エルヴィンももちろん素晴らしい。しかし、私は断言してもいいが、このアルバムを快盤たらしめているのは(もちろん名盤とよんでもいいが)、ジョージ・ムラーツのベースである。トミフラの優雅で楽しく飛び跳ねるピアノに浸りながら、私の耳はいつのまにかムラーツのベースを追っている。


モンクの鼻歌

2007年05月06日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 162●

Thelonious Monk

Solo Monk

Watercolors_13  GWも今日でおしまいなのですね、といっても、私は昨日だけがオフであとは仕事、今日もこれから仕事です。それでも、普段よりはずっと時間的にも精神的にも余裕があったわけで、それなりにリラックスはしたわけです。

 リラックスということで、1964-65年録音のセロニアス・モンク『ソロ・モンク』。モンク晩年の作品で、最後のソロ・アルバムらしい。とてもリラックスした、親しみ易く、聴きやすい一枚である。平均律の呪縛から脱出しようとした孤高のピアニストなどという難しいことを想起する必要はまったくなし。「ズンチャ、ズンチャ」というラグタイム風の左手のスライド奏法にあわせて、右手からは素朴でほほえましく、どかこか懐かしいメロディーが聴こえてくる。これはモンクの鼻歌だ。我々はその鼻歌にあわせて、これまた鼻歌をハミングすればよし。

 しかし、考えてみれば平均律の呪縛からの脱出などといったって多くのファンには大きな問題ではなく、モンクの音楽の背後にはいつも鼻歌が流れていたのではなかろうか。それが一見小難しい音楽に見えながら、多くの人がモンクに魅せられる理由なのではなかったか。むしろそのオリジナルな鼻歌に「平均律からの脱出」が必要だったからモンクはそれをやろうとしたのだろう。私がモンクを聴いていていつも共感するのは、演奏の背後に通低音のように流れる鼻歌の部分なのだ。