◎今日の一枚 231◎
Fumio Itabashi(板橋文夫)
WATARASE
(板橋文夫アンソロジー WATARASE)
興奮している。昨日届いたCDを聴いている。まだ通して聴いていないのに、もうこの文を書いている。それほどまでに興奮しているのだ。聴いているのは、板橋文夫の『板橋文夫アンソロジーWATARASE』という作品だ。発売されたのは2005年、2枚組みCDである。DISK1は板橋のベスト集、DISK2は名曲「WATARASE」の異なるバージョンが7つ入っている。DISK2に収録されているのは、なんと「WATARASE」だけだ。「WATARASE」はDISK1の冒頭にも収録されているから、「WATARASE」だけでなんと8バージョン入っていることになる。繰り返すが、「WATARASE」だけで8バージョンだ。一体、こんなアルバムを誰が買うのだろうか。よほどの板橋文夫ファンか「WATARASE」ファンであろう。そして、私はそれを買ったということだ。3150円だった。迷うことはなかった。そして、それを買い、聴いた今、私は興奮している。
以前にも記したことではあるが(→『WATARASE』、『一月三舟』)、10年程前、隣町の小さなホールで見た板橋のコンサートは、衝撃的だった。板橋の演奏を聴いたのはその時がはじめてだった。板橋の演奏はすざまじかった。左手が創り出すうねるようなビートの中で、右手のメロディーが自由自在にかけめぐっていく。時折使用するピアニカ(鍵盤ハーモニカだ)の演奏がまた凄かった。ブルースフィーリング溢れる響きだ。魂が入ると、ピアニカなどという楽器があれほどまでに輝かしいサウンドをつくりだすとは、はっきりいって信じられなかった。金子友紀という若い民謡歌手が一緒だったが、彼女の歌う「WATARASE」が実に感動的だったのだ。民謡歌手の歌にあれ程の感動を受けるとは予想だにしなかった。それ以来、この民謡歌手の歌う「WATARASE」をずっと探していたのだ。10年もの間だ。そして、このアルバムには民謡歌手の歌う「WATARASE」が入っている。DISK2-⑥ 「交響詩『渡良瀬』~ピアノと民謡と交響楽のための」がそれだ。歌っているのはもちろん、金子友紀だ。
10年ぶりに聴く、民謡歌手の歌う「WATARASE」いや「渡良瀬」は、私の期待を裏切らなかった。私の聴いたコンサートの時のものより、ずっと声が伸びやかで透き通っているように思う。この演奏を聴いて、「ああ、やはり私も日本人なのだ」などという感慨を私は持たない。そんな奴は下劣な人間なのだと私ははっきりと確信をもって思う。「日本」や「日本的」なものなどというものは、アプリオリに存在するものではない。はじめからあるものではないのだ。「日本」などという偏狭なもの以前のもっと土着的な感受性がそこにはある。重要なのは、そういったビートや旋律がそこにあるということだ。死んでしまった網野善彦にならっていえば、それは日本列島に育った音楽なのであり、「日本的」なものなどでは決してないということだ。
このアルバムには他にも魅惑的な「WATARASE」が数多く収録されている。何せ、繰り返すが、「WATARASE」だけで8バージョン入っているのだ。ひとつひとつの「WATARASE」を聴くたびに、驚きと発見の連続である。「演奏」とは、これほどまでに曲に魂を吹き込むものなのか。そのどれもが、個性的で、刺激的で、感動的である。「WATARASE」が8バージョンも収録され、しかもDISK2はすべて「WATARASE」だけであるという異常事態にもかかわらず、恐らく私は、これからもこのアルバムを、とくにそのDISK2を何度も再生装置のトレイにのせるだろう。それほどまでにこのアルバムは感動的であり、そして私は、「WATARASE」という曲が好きなのだ。