極私的名盤『手作りの画集』に収められた楽曲については、これまでにいくつか取り上げてきたが、「都忘れ」の記事でも指摘したように、多くの楽曲が都会と田舎、都市と農村の対立という社会構造を背景として成立しており、それがアルバムのコンセプトとなっているようだ。今となっては、あまりにシンプルすぎてステレオタイプな印象を受けるが、都会と田舎の違いが現在よりはっきりしていた当時の時代背景の中では、そのような認識は必然性のあることだったのであろう。
さて、『手作りの画集』収録の有名曲「赤いハイヒール」である。実をいうと、私自身あまり好みの楽曲ではないのだが、「語り」のような部分から始まる斬新な構成や、アコーディオンを駆使した卓越した編曲やサウンドからも、太田裕美を語るうえで重要な作品であることは間違いなかろう。また、太田裕美にとって「木綿のハンカチーフ」に次ぐミリオンセラーのヒット曲であり、作曲者筒美京平をして「これ以上の良い曲は書けない」と言わしめたらしいことからも注目すべき作品である。
田舎から「胸ポケットにふくらむ夢で」都会にでてきたものの、「故郷なまり」が原因で無口になり、「タイプライターひとつうつたび夢なくしたわ」「死ぬまで踊るああ赤い靴」と嘆くほど、意味のない、単調な仕事に追われて自己を見失い、人間性を喪失していく少女の話である。
すごい。初期マルクスの疎外論を思わずにはいられないような展開である。今となっては、都市=悪、農村=善、という単純な図式が鼻につくかもしれないが、例えば見田宗介(真木悠介)が人間疎外や自己疎外からの脱却を唱え、コミューンを夢想したように、1970年代には確かに都市での労働に対してそのようなイメージは存在したのだ。
「おとぎ話の人魚姫はね」などとあるが、「赤いハイヒール」が、アンデルセンの「赤い靴」をモチーフとしているのは明らかであろう。赤い靴に執着する少女が呪いをかけられ、靴を脱ぐこともできず、足が勝手に踊り続けてしまうという話だ。アンデルセンの童話では、少女は両足首を切断し、教会でボランティアに励むことになるのだが、この曲においては、「そばかすお嬢さん」と呼びかける青年の登場によって、この少女が救済される道すじが示される。青年は「故郷ゆきの切符」を買って少女をさらい、「緑の草原」で裸足になることを夢想する。そして、「倖せそれで掴めるだろう」と、パッピーエンドへの道を予告するのである。このアルバム全体が都会と田舎の対立という社会構造を背景にしていることを考えると、都市での疎外された労働からの救済の手段として、「故郷」の存在が提示されたことはとりわけ重要である。
この青年の立ち位置、視線がどうもよくわからない。一応、男女の対話形式、かけあい形式ということになっているが、少女と青年の視線や状況認識が食い違いすぎている。それが「曲がりくねった二人の愛」ということなのだろうか。少女の、自己の困難を吐露する言葉のリアリティーに対して、青年が「そばかすお嬢さん」と呼びかける部分は、あまりに空疎で直接少女と会話しているとは考えられない程だ。このことが青年の立ち位置を不明確にしている。むしろ、「ねえ、友だちなら聞いてくださる」という冒頭のフレーズを聴き手に対する呼びかけととらえ、この青年を架空の、形而上学的な「神の視線」から少女を見守っている存在と位置づけた方がいいのではないか。もしそうなのであれば、≪救済の物語≫として構造的に非常に興味深い歌詞だ。
しかしまあ、「アラン・ドロンと僕をくらべて陽気に笑う君が好きだよ」という部分などの世俗的な言葉を考慮すれば、やはりテクストの解釈としては、青年を現実の世界の中の存在と位置づけた方がよさそうである。それではこの青年は、同郷の幼なじみなのだろうか、あるいは都会に来てから知り合ったのだろうか。おそらくは、「僕の愛した澄んだ瞳はどこに消えたの」や、「アラン・ドロンと僕をくらべて陽気に笑う君が好きだよ」などの部分から、この青年は東京に来る前の、「澄んだ瞳」の「陽気」だった少女を知っている、同郷の人物だと考える方が自然なのだろう。交際相手だったかどうかは不明であるが、全体の流れから、少女に思いを寄せていたことは確かであろう。「曲がりくねった二人の愛」とは、恐らくは青年の片思いをも含むものと考えられるが、かつて何らかの形で交際していた可能性も完全には否定できない。
いずれにしても、この青年によって少女が救われる道すじが示されるのである。青年の、少女を故郷へ連れ戻すという行為が、疎外された労働から少女を救済する方法なのだ。けれども、と私は考えてしまう。この少女は、本当に青年に従って「故郷」に戻ったのだろうか。「赤いハイヒール」の歌詞は、そのことについては何も語らない。