清楚だ・・・。いいなあ・・・。騙されやすい私は、いい年をしてうっとりしてしまう。1977年録音の、太田裕美のアルバム『こけてぃっしゆ』のジャケットのことである。ファンの間では非常に評価の高いジャケットである。もちろん私も異存はない。あろうはずがない。
評価に困るのは、その内容の方である。『こけてぃっしゆ』を太田裕美の最高傑作と絶賛するファンがいる反面、一方に酷評も少なからず存在するのだ。私自身、決して悪い作品ではないと思う反面、最高傑作とはいくらなんでもいい過ぎだと思ってしまう。しばらくぶりに通して聴いてみたが、退屈な印象が免れないと思う一方で、聴きこむほど身体に優しくフィットしてくるのもまた事実である。結局、太田裕美という存在をどうとらえるのか、その音楽に何を求めるのかという、聴き手側のスタンスによって評価が分かれるということだろう。
maj7を多用した、いわゆるシティー・ポップ風味のサウンドである。エンディングが基音で終わらない曲や、フェードアウトで終わる曲が多く、1970年代後半からはじまった「洋楽」におけるAORのムーブメントの影響を強く受けていることがわかる。太田裕美がそれまでのノスタルジー路線から脱皮しつつ、新しい、おしゃれで都会的な、大人のサウンドへの転換を図ろうとしたということなのだろう。実際、当時はセンシティブで一歩進んだ音楽に聴こえたものだ。AORが、カウンター・カルチャーのある種の生々しさから脱皮して、音楽それ自体が価値を持つような、あるいは生活のクオリティーを上げるツールとしての音楽への転換をめざしたように、太田裕美も「青春」のある種の生々しさから脱皮し、新しい音楽をめざしたということなのだろう。したがって、太田裕美の楽曲に自らの青春を投影し、青春のノスタルジアを共有しようとする立場からは、積極的な評価は得られないことになる。実際、太田裕美の市場でのセールスは、これ以降下降線をたどることになる。
シティー・ポップとしては、決して悪いアルバムではなかろう。失敗作などでは断じてない。今日的視点からはやや「模倣」が透けて見えるが、それもほほえましいという程度だ。身体にやさしく、気分がいい。生活のクオリティーを上げ、素敵な時間を過ごすためのツールとして優れたアルバムである。聴きこむほどに、ゆっくりと少しずつ沁み込んでくる曲もある。しかし、やはり歌が訴えてこないと思ってしまう。時代や思いを共有できるようなメッセージ性が伝わってこない。そもそも「大人のサウンド」の「大人の」とは、対象に深くコミットせず、一定の距離をおいた「諦観」の立場から「風景」を眺める仕方ではなかったか。エコー処理が施され、心に突き刺さることを回避したサウンドに、自己の青春の「物語」を投影することができないのは当然のことなのかもしれない。もちろん、太田裕美の年齢や、時代状況の変化もあり、路線の転換は必要だったのであろう。ただ、シティー・ポップ作品なら、他にもっと良質なものがすでにいくつかあった。太田裕美がそれをやらなければならないという必然性はあまり感じられない。もっと違う方向性があったのではないか、と今は思う。
さて、「九月の雨」である。このアルバムのラストに収められた曲だ。ソフト&メローなこのアルバムの中で、誰がどう考えても異質な曲である。『こけてぃっしゆ』を絶賛するファンの中にも、このアルバムにこの曲が収録されていることに疑問を呈する人は少なくないようだ。「九月の雨」については、かつてこのブログの中で否定的な見解を述べたことがある。青春の日のノスタルジアの偶像としての太田裕美が、女の生臭さを表出してしまったことを糾弾する、ややヒステリックな物言いの記事だった。ところがである。まったく意外なことであるが、『こけてぃっしゆ』を聴いていると、最後の「九月の雨」を待っている自分を発見する。ソフト&メローなこのアルバムの中で、生々しい「九月の雨」を待ち望む私がいるのだ。wikipediaによれば、『こけてぃっしゆ』のA面はGirl Side、B面はLady Sideと称されるのだという。であれば、大人の恋のつらさ、生々しい女の嫉妬と情念を表出したこの曲がLady Sideのラストにあることは理由のあることなのであろう。「九月の雨」は、アルバムが発表された後にシングルカットされた曲であり、その意味ではアルバムのコンセプトとしてラストに配置されたものと考えられる。
「九月の雨」に対する私の考えが根本から変わったわけではないが、アルバム『こけてぃっしゆ』のラストとしての「九月の雨」は、自分が太田裕美に求めているものを改めて認識させてくれる。