デストロイヤーさん死去、88歳 子ども妻に囲まれ
昨日7日プロレスラーのデストロイヤーさんが亡くなりました。
88才だったそうです。息子さんがFBで報告したそうです。
謹んでお悔やみ申し上げます。 南無ではないですよね。アーメンですか?
あの頃はTVもプロレスの放映も面白かったですね!!
浜爺はすぐデストロイヤーと力道山の死闘を思い出しました。
来日の頃を記事で見ますとなんと大学生の頃でした。
良い年こいた大学生が小生に限らず同級生も夢中でTVにかじりついたり4の字かための掛け合いを試してみたりしたものでした。
これがその一場面です。
ショー(約束事)なのですが老いも若きも夢中で見ましたよ!
ジャイアント馬場との対決では興奮したお爺さんが発作を起こして死亡したりしたことが報じられました。
日本式に数えるとデストロイヤーは昭和5年生まれ、浜爺が一回り後の昭和17年ですから昭和の人もいよいよ終わりになってきましたね。そういえば歌手の森山加代子さんも6日78才で亡くなっていました。
これも昭和人の最後でした。
浜爺としてはボケないで東京五輪をTVで見たいものです。
写真:現役時代のデストロイヤー
日刊スポーツ:
力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなった。享年88歳。同日に複数の米メディアが報じた。元プロレスラーの息子カート・ベイヤー氏が自身のフェイスブックで報告したもので「父のデストロイヤー、ドクターXことディック・ベイヤーが今日正午すぎに亡くなりました。自宅で子どもたち、妻に囲まれながら平穏に去っていきました」などとつづった。デストロイヤーさんはここ数週間、病院のケアを受けていたという。
米バファロー出身のデストロイヤーさんは1954年に素顔でデビューしていたが、62年に白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラーの「デストロイヤー」として変身後に大ブレーク。同年にブラッシーを下してWWAヘビー級王座を獲得。63年には日本プロレスに初来日し、力道山と対戦した。特に同年5月24日、力道山とのWWAヘビー級王座は平均視聴率64%をマークした。
以後、ジャイアント馬場のライバルとして大きな注目を集め、またアントニオ猪木とも対戦している。73〜79年には日本に在住し、全日本プロレスの所属選手として活躍。馬場やジャンボ鶴田とタッグを組み、ブッチャーやミル・マスカラスと対戦し、人気を博した。そのキャリアは約40年、日米合わせて8000試合以上におよんでいる。
また日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にレギュラーで登場し、和田アキ子、徳光和夫アナウンサーとの掛け合いも人気を集めた。93年に現役を引退。たびたび来日し、17年には外国人叙勲者として旭日双光章を受章していた。
(引用終わり)
昨日7日プロレスラーのデストロイヤーさんが亡くなりました。
88才だったそうです。息子さんがFBで報告したそうです。
謹んでお悔やみ申し上げます。 南無ではないですよね。アーメンですか?
あの頃はTVもプロレスの放映も面白かったですね!!
浜爺はすぐデストロイヤーと力道山の死闘を思い出しました。
来日の頃を記事で見ますとなんと大学生の頃でした。
良い年こいた大学生が小生に限らず同級生も夢中でTVにかじりついたり4の字かための掛け合いを試してみたりしたものでした。
これがその一場面です。
ショー(約束事)なのですが老いも若きも夢中で見ましたよ!
ジャイアント馬場との対決では興奮したお爺さんが発作を起こして死亡したりしたことが報じられました。
日本式に数えるとデストロイヤーは昭和5年生まれ、浜爺が一回り後の昭和17年ですから昭和の人もいよいよ終わりになってきましたね。そういえば歌手の森山加代子さんも6日78才で亡くなっていました。
これも昭和人の最後でした。
浜爺としてはボケないで東京五輪をTVで見たいものです。
写真:現役時代のデストロイヤー
日刊スポーツ:
力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなった。享年88歳。同日に複数の米メディアが報じた。元プロレスラーの息子カート・ベイヤー氏が自身のフェイスブックで報告したもので「父のデストロイヤー、ドクターXことディック・ベイヤーが今日正午すぎに亡くなりました。自宅で子どもたち、妻に囲まれながら平穏に去っていきました」などとつづった。デストロイヤーさんはここ数週間、病院のケアを受けていたという。
米バファロー出身のデストロイヤーさんは1954年に素顔でデビューしていたが、62年に白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラーの「デストロイヤー」として変身後に大ブレーク。同年にブラッシーを下してWWAヘビー級王座を獲得。63年には日本プロレスに初来日し、力道山と対戦した。特に同年5月24日、力道山とのWWAヘビー級王座は平均視聴率64%をマークした。
以後、ジャイアント馬場のライバルとして大きな注目を集め、またアントニオ猪木とも対戦している。73〜79年には日本に在住し、全日本プロレスの所属選手として活躍。馬場やジャンボ鶴田とタッグを組み、ブッチャーやミル・マスカラスと対戦し、人気を博した。そのキャリアは約40年、日米合わせて8000試合以上におよんでいる。
また日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にレギュラーで登場し、和田アキ子、徳光和夫アナウンサーとの掛け合いも人気を集めた。93年に現役を引退。たびたび来日し、17年には外国人叙勲者として旭日双光章を受章していた。
(引用終わり)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます