20歳の頃、柔道を習っていました・・とっても弱かったけれど
練習中に隣の乱取りに巻き込まれて自慢の?顔の骨を折られました
渋谷の街で良くモデルのスカウトをされました(ほんまやで)
レッスン料目当てのモデルクラブの銭儲けの種になるのを知っていたので
いつも断っていましたがある日・・
「レッスン料はいらないからモデル登録してくれ」と言われてエキストラの仕事を幾つかしました
小劇団に所属する俳優志望のエキストラ仲間に誘われて下北沢で酒を飲んだりしましたが
(食っていかれるような俳優なんて成れっこないだろ)・・
きっぱりやめて修行の道を歩みました
40年以上も前ですがこんなアホウでも社会人になりました
今、流行りのパワハラをほとんどされた事がありません・・
上司がいなかったので
僕以外のスタッフは按摩経験のあるおじやんに病棟で島流しにあったエイドさんでした
スタッフ3人でした
現在、この病院のリハビリスタッフはPTとOT合わせて100人近くいます
この年、僕の資格の年間取得者は1000人足らずPTは500人足らずでした
現代PTだけで年間12000人程が資格を得ているそうです
世間はバブルの嵐が吹き荒れている時代ですね
開業骨接ぎも勤務PTもバブルが吹いていました
知り合いのPTが名〇貸しで大儲けしていました。
夜は准看の学校で講師もしていて女性にも苦労していませんでした
現在開業骨接ぎも勤務PTも貧乏を争っています
有名な女優さんとツーショット・・
もう46~7年前だけれど現在でもこの女優さんは活躍中です
うちの田舎にテレビドラマのロケでいらっしゃったけれど冬なのに半袖のティーシャツ姿でした
(たまるか!都会のおなごは元気やな)と思いました
さっき調べたら、これがこの女優さんのテレビドラマ初デビュー作で彼女が18歳なんだ
(僕は16歳・・別に何の接点も無いけれど)
初デビューでまだ無名の女優さんとどうやって写真を撮ったんだろう
それにしても彼女はもうスターになるオーラが出ていますね
僕にはこれからの転落人生の始まりが予感されます・
女優さんはこの次の年、NHK朝の連続テレビ小説の主役になりました
早いもので5日で高校生になりました
高校は隣の県の高校に進学しました。
高知の中学校から徳島県の高校に・・
学校に馴染んでくると江戸時代から文明開化したような感じがしました。
入学式に・・
「起立!国歌斉唱!」と言う掛け声と共に生徒がいっせいにに反応するんです
高知の学校では国歌は歌わないし起立もしない
いやー初めて国歌を歌った時は感激で涙がウルウルしました
授業中に生徒が先生の授業を聞いているのも驚きました
(これが普通か)
初めて教師に好感が持てる様になりました
好きだった歴史の先生が早稲田大学を出ていると聞いて
(わしも勉強して東京の早稲田に入っちゃる!)と思いました。
大志は続きませんでしたけれど
数学の先生に褒められました
その時、ふと思ったんですが・・
学校で先生に褒められた記憶は無くて高校生になって初めて教師に褒められたんです。
(これ本当です)
トップギャランの歌に
「青春時代の真ん中は♪胸に遂げ刺す事ばかり~♪」と言う歌詞がありますけれど
高校時代はホント楽しかったですね
中学時代が暗黒でしたから
現在でもうちの田舎の町並みの風景はそんなに変わらないんですよ
昔は道で行合う人皆、どこの誰それと分かるほど小さな町でした
知らない人が町中を歩いていると注目を浴びるくらい
この時代この辺りには良くお遍路さんが托鉢?に来ました
お遍路さんが家の軒下でごにょごにょとお経を唱えだすと母が
「ほら持って行っちゃり」と言うので
お遍路さんにお米を一握りかお金を5円程持って行くんです。
当時でも少ないんだけれど彼らはあくまで修行の身だから
今でこそお遍路さんはセレブ遍路ばかりだけれど当時は世を儚んで乞食遍路となって
命の絶えるまで四国を巡礼して回る人もいた
峠道などで行倒れたお遍路さんはそのままお地蔵さんになりました
母によく「勉強せんとお遍路さんになるでぇ」と言われた
3日やって辞められないのは遍路と乞食、それほど恵んでくれる人が多かったんです。
小学校ではだらしが無い子だったので担任に良く目の敵にされました
勉強も出来なかったけれどどう言う訳か唯一朗読は得意だった
空想好きで授業中に良くボケーとしていて担任の先生につけられたあだ名がずばり
「このボケー」だった
強い子に媚びへつらい陰で悪口を言うそんな狡すっからくって情けない子だったね
家で一日ひきこもってテレビを見るテレビ小僧で夕暮れには浜に出て漁火を見るのが好きだった
大阪万博の頃か・・この頃から写真がカラーになった
千里ニュータウンの叔父の住む団地に泊めて貰って家族で出かけた
インド館の女性スタッフの顔を見入っていたら抱きしめられた
今でも綺麗な外人女性に見入ってしまう事がある(誰も抱きしめてくれないけど)
万博の外国パビリオンより団地の水洗トイレとユニットバスに憧れた
(今考えると実家の風呂場が離れにあった五右衛門ぶろがどんなに良かったか)
小学校の3~4年か
学校は古い木造で講堂や音楽室までは屋根のある渡り廊下で繋がっていた
通学にランドセルや運動靴を履いて来る児童はいなかった
皆、ビニールの手提げかばんに草履履きだった
現在、僕の住むこの辺りは東南アジアの若者が大勢住んでいて
中には日本人と顔立ちが変わらない方もいて区別がつかないんだけれど
足元に目を落とすと向こうの方は冬でも草履履きなんだ
あの頃(僕の小学生時代)僕の出た小学校は東南アジアだったんだ
昭和40年頃か・・
この年、中国では文化大革命が起きたそうです。
アイスキャンディーを持っています。たぶんこの頃より少し大きくなった頃
一日のお小遣いが30円でした小遣いを貰うとすぐその足で駄菓子屋の‘おとく婆さん,の店に行って
‘当てもん,と呼ばれた一回5円のくじ引きをするんです
チューイングガム程の紙のクジをひいてそれを舌でねぶって(舐めて)出てくる浮き上がった字で
当たりかハズレが決まるんです。
僕は幾らクジを引いても出てくるのは皆、ハズレで当たりが出る事は無かった
それもそのはず‘おとく婆,は当たりクジは除けてハズレクジを水増ししていたんです
それにしてももうこの頃には将来に陥る‘ギャンブル依存症,の下地はあったんですね
うっ!おでこにコブがある
生まれたのは徳島県との県境にある高知県の漁師町で家は遠浅の白い砂浜から徒歩3分
他に山あり川あり
小さい頃は四季折々一日中自然の中を駆け巡る自然児だった
浜が近いので夜はさわさわと眠りを誘う寂し気な潮騒の音を聞きながら眠りにつき
また海の荒れる台風の日は波が岩に叩きつけられ唸るようなドッーンと言う音が聞こえた
港は天然の良港で漁師だった父の船も港に舫っていて
港からは大阪の天保山と往復する汽船が毎日出ていてバスで3時間以上かかる高知の市内より
大阪の方が身近に感じられた
家族は両親に祖父祖母、3人兄弟の末っ子に生まれた
小さい頃の記憶は母に背負われて保育園に通っている兄を見に行って
「僕も保育園に行く」とせがんだ事と
大阪で暮らす叔父が花嫁を初めて実家に連れて来た宴席で
「僕の名前を知ってるかい~♪」で始まる山田太郎の新聞少年を歌った事
祖母は町でただ一軒の衣料品店を営み祖父もその頃はまだ世間では少ない品種のミカン栽培をしていて
金銭的には比較的恵まれた環境だったと思う
祖母の仕入れに年中大阪について行って大阪コマ劇場で美空ひばりさんのコンサートを見たり
宝塚ファミリーランドでゲゲゲの鬼太郎を見て阪急百貨店でお子様ランチを食べた
そんな暮らしの中にも兄には生まれながらに体に障害があり
母が兄を連れて徳島の大学病院を頻繁に受診に行って家に残された僕が祖母と過ごした時間
町や学校で兄を見かけると必ず他所の子に虐められている光景
それを見て見ぬふりをする僕、
そんな幼少期だった