HIROZOU

おっさんの夜明け

寒いだろうな

2014-12-29 17:44:25 | メモリー

今年もあと数日を残すのみだけど

今年はずっと腰痛に悩まされて年の後半は風邪をひいてばかりだ

来年は健康に気を付けよう

少し酒を控えなきゃ・・

もうええ歳なんやから

来年は自分にとってもうちの娘たちにとっても

たぶん正念場の年だろうな

気を引き締めなきゃ

来年は何年振りかで正月を田舎で迎える

この寒いのに帰省は大晦日の日

飛行機は高いから新幹線と高速バスを使う

途中、京都の錦市場に寄る予定だが

混んどるやろな・・・

それにあっちこっちに寄ってたら

結局、飛行機で帰った方が安く付いたりするんだよな

これがまた

そう云えば京都は大阪で暮らした最後の年、19歳の時

良く行ったな

別に京都が好きだからじゃなくて

パチンコが好きだったから

でもお金があまり無かった

河原町のミカドと言うパチンコ屋のホールに

その頃ではもう化石とも言うべきスマートボールの台が置かれていた

今でも稀に浅草とか大阪の新世界で遊技台として見かけるが

その頃のパチンコ屋ではもう珍しかった

ゴルフボール程の大きさの玉を一発づつ斜めになった台に弾いて

入った穴の得点によって玉が増えた

もちろん景品に交換出来たんだが

お金をあまり使わない分あまり儲からなかった

たぶん儲けても数百円ぐらいだっただろう

ただ朝から晩までスマートボールを打つために大阪から京都に通った

電車賃もその頃、僕の住んでいた駅から160円ぐらいだった。

にゃんこ(鰹節)弁当を持ってパチンコの合間に鴨川べりで食べたりしていた

儲かった日は新京極できつねうどんを食べて生八つ橋の一番安いのを買った

一人ぼっちで京都の町をさまよったり

たまに清水寺にも上った

清水の舞台から京都市街を見下ろして

何を考えていたんだろう?

東京に上京して社会人になって

いろんな子を連れて京都に行った

そのたんびに清水に上るんだけど

清水の舞台から見える景色は変わらないんだよな

昇ったことのない京都タワーに

緑の山の向こうに京都の市街地が見えて

周りには修学旅行生たちがいて

景色は変わらないけど

自分自身は確実に老けていってるんだな

女の子と上った清水の思い出なんか忘れちゃってるけど

何故かしら10代最後の頃

スマートボールを打ちに通った河原町と

一人上った清水寺の光景は覚えてるな


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構内で今でも迷う

2014-12-22 19:06:33 | メモリー

                                      


今年は東京駅の開業百周年らしい

僕が初めて東京駅に降り立ったのは30数年前の20歳の時だった

とある学校を受験するために上京したんだが

新大阪から初めて乗った新幹線が大きな東京のビル群が林立する谷間を入って行く

東京

大阪とは違う何を感じた

何か得体の知れないものが待ち構えていて

自分自身が宇宙に投げ出されたちっぽけな埃のようで

東京駅を降りると自分以外の人間は皆、異邦人の様な気がした

先に上京して中央線の国立で大学生活を送っていた友人のアパートに向かった

「とりあえず赤い電車に乗れ」

と教えられた

東京駅に夢と希望を描いて降り立ち

挫折と屈辱感に苛まれながら東京を去る人も多いだろう

自分の場合

夢も希望も無かったし

そもそも東京に出ようなんて少しも思っていなかった

しかしいろんな状況が東京に向かわせた

先に上京していた高校の同級生たちが新宿で歓迎会を開いてくれた

5~6人だったと思うが

あか抜けた奴と田舎っぺそのままの奴がいた

現在、30数年前に歓迎会を開いてくれた面々のほとんどが東京を去った


自分だけが一人残された

四畳半フォークの頃と違って世がバブルを迎えた頃だったんで

上京した時期は良かった

まさしく東京駅を舞台にしたシンデレラエキスプレスのCMの時期が恋愛適齢期だった

こちらで家庭を持った

今、月に一度ほど東京駅を出て皇居ランをする

昔、自分を圧倒したビル群にも慣れた

自分以外、異邦人に見えた東京の人間が

今は自分と同様の田舎者に見える

だがふと立ち止まった時

「なんで俺はこんなところにおるんやろ?」

とか思う事がある

 




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辛酸を舐め舐め

2014-12-19 17:52:39 | Weblog

今日の昼休みは街に出た

安いメガネとジョギングシューズを買い

普段は千円床屋だが今日は正月前なんで奮発して二千円床屋に入った。

床屋の二軒隣はうちと同業の繁盛店だが覗いてみたら閉店していた。

どこも苦しいな

宝くじも買おうと思っていたがあまりの行列なので買うのを止めた

街に出て改めて思った事は

景気が悪いな

アベノなんたらで財産は増えているんだろうが

それが購買欲に結びついていないんだな

さっき高齢者のお客さんが言ってたが

「欲しいものが無い」

・・そうだ

いらないものには金を使わない

これが現状だな

趣味でメガネは買うが

今日はラーメンを控えた

別にラーメン食わなくても何の問題も無いもんな

この難儀な時代を生き残るには

必要とされる仕事

必要とされる人間を目指さないといけないな

そやけどもうこの歳になると

必死こいて働けないな

だからと言って

霞食って生きられないし・・・

悲しいな・・

自分が卒業した小学校はもう一学年が10人もいないらしい

隣の小学校もまたその隣の小学校も

田舎から子供が消えたんだな

あの大勢いた僕の同級生たちはどこでどうしているんだろう

どこか都会の片隅で辛酸を舐めながら生きているんだろうな

わしだけか

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節目

2014-12-18 19:14:39 | メモリー

ほんまに今日も一日寒いな

北風がぴゅーぴゅーと

今年前半の積雪といい、今回の寒波といい

わしにとっちゃ初めての経験かも知れない

もう気分は北国だな

ひゅ~るり~♪ひゅ~るり~♪らら~♪

スキーなるものに行ったのは1度だけ

鏡のようなアイスバーンで転ぶと尻が痛かったのなんのって

たまたまぶつかった、ぶちゃいくなネェちゃんに睨み付けられた

それに懲りてそれ以来行ってない

だいたい夏は好きだけど

冬は苦手だな

小さい頃のクリスマス

もしかしてと思って

枕もとに靴下を置いて寝たけど

プレゼントを貰った事は無かった

まっ!あの時代にプレゼントを貰える子なんて

上流階級の子供だけだろう

それでもツリーを飾り

めったに食べれないケーキと鳥のモモ肉が食べられた

大晦日は紅白歌合戦

家族全員、テレビの前に陣取って

一つの炬燵で暖をとった

行く年くる年

浅草浅草寺や成田山新勝寺の除夜の鐘の生中継が流れる

雪が舞い大勢の初詣客

浅草・・成田山・・・

とても遠い世界のようだった・・

(いまはとっても身近だが・・?)

朝早く起きてじぃさんから皆、お神酒を貰って新年のあいさつ

母の手作りのおせち料理にお年玉

昔は節目節目にメリハリが付いてたよな

今の我が家はクリスマスも正月もバラバラだもんな

・・・

わしのせいやろけど

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何や分からんが

2014-12-17 18:12:44 | メモリー

今日は北風がぴゅーぴゅー吹いてとても寒い

日課の朝のウォーキングも家を出て数十メートルで引き返した

昔、大阪で一人暮らしを始めて最初の冬、ボロアパートの窓ガラスを揺らして隙間風が吹き込んで来た

布団の中で夜中じゅうガタガタと震えていたら

あくる朝、部屋の台所が凍っていた。

部屋の中で凍死したら洒落にならんなと思って窓の隙間に目張りした

そしたら寝られるようになった

現在でも東北も日本海へも行った事が無いが

四国の海辺育ちなので高校を出るまで雪を見た事が無かった

小さい頃からテレビに映る雪の光景が好きだった

ほっかむりをしたおばさん、どてらを着て、わらぐつを履いて

吹雪の中を顔をしかめながら歩いて行く

藁ぶき屋根の家

家の中に囲炉裏があって炭が赤々と熾っている

囲炉裏には鍋が架かっていて

鍋の中には芋と猟で捕って来た野ウサギ

グツグツと音を立ててる

キリタンポを刺した竹串?なんかも炭火で焼いて

天井から吊るされた鉄瓶もしゅんしゅん♪と

天井には干した大根、イブリガッコ

外は大雪

吹き付ける風吹ががたがたと木戸を揺らし

おとうは土間でダンダンと藁を打つ

「もうすぐ出稼ぎに出らんにゃなんねぇな~」?

とか言っている

ちゃんちゃんこを着た赤いほっぺの子供達

坊主におかっぱ頭

「おとう、東京さ行ったら手紙、送ってくんろ」

おかあさんは針仕事

靴下にツギをあてている

かあさんが~♪夜なべをしててぶくぅろ~♪編んでくれたぁ~♪

雪に閉ざされた環境の中でも人々はたくましく生きる

ぱーぱぱぱっぱぱぱ~♪すっこーん♪すっこーん♪

新日本紀行のテーマソングが流れる・・・

仕事・・・

せにゃ~


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ボーナスどころか・・

2014-12-16 18:30:10 | メモリー

今日、仕事中にお客様が・・・

「ボーナスの出る人が羨ましいわ」

それを聞いてうちのパートがポツリと・・

「わたしだって貰えないんだから・・」

(うちのこの状況でボーナスの話はタブーだろう・・)

僕が初めて給料なるものを貰ったのは19の歳の大阪だった

まだ発行されたばかりのアルバイトニュースが薄っぺらいページ数の頃

その中で一番、時給の高い仕事を選んだ

場所は天六の商店街に近い南森町の会社だった

まだ履歴書に何の職歴もない真っ白な時

記念すべき労働者の第一歩だ

その頃の僕は今と違って明るくさわやかな青年でどんな質問にも

「はいはい!」と

明るく爽やかに受け答えしていた。

だけど僕の頭の中に労働意識なるものはいっさい欠如していて

ただ時間を潰していれば給料を貰えると思っていた

仕事は水処理の仕事で水冷のクーラーの掃除や受水槽の掃除だった

毎朝、社員とペアになり現場に行って仕事をする

僕は一切自分から進んで仕事をせず

言われた事だけ

「はい!」

と明るく仕事をもたもたとやっていた

最初は社員も丁寧に接してくれたが

そのうち・・

「このボケ!カス!はよせんかい!」と

怒鳴るようになって来た

朝、会社に出勤するとホワイトボードにその日の現場とペア名が書かれていて

その日、僕とペアにさせられた社員が

「けっ!今日はひろ造とか!おらん方がマシやな」

とか言い出した

仕事は相変わらずもたもたしていて

「なんぼ言うたら分かるんじゃい!」

と怒られてばかりで

爽やかな笑顔も出なくなった

それでも会社は僕をクビにせず

僕自身、仕事を辞めなかった

何故かと言うと

その頃

パチンコのフィーバー台が登場して毎日、天六でフィーバーした

その日の日当を毎日パチンコにつぎ込んでいつも文無しだった

仕事に行きへすれば金は入るので辞めれなかった

バイトの中で一番できない奴のレッテルを貼られ

終いには

ボケカスも言われなくなり

社員も仕事先で僕の事を‘おらん,つもりでやっていた

一度、釜ヶ崎の三角公園近くに現場があった

僕に命じられた仕事は現場の‘見張り,だった

昼間っから酒を飲んで‘バクチ,に興じる公園の住人を見て

今でもすごく親近感が沸いたのを覚えている

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泣いた

2014-12-07 17:12:09 | 徘徊

                 

今日は皇居ランに行って来ました。

さすがに早朝はランナーがいつもより少なかったですね。

今日は乾門から皇居に入れる最終日と言う事でけっこう朝早くから人が並んでいました。

北の丸公園?のハゼの木です。

                 

武道館前の銀杏の木です。

私はコンサートとかには全く縁が無いので武道館に入った事がありません

今日は空手の大会を行っていました。

                 

靖国神社のカエデです。葉っぱが三色でした。

靖国神社に来たのは2度目ですが前回に来た30年ほど前は慌ただしくてほとんど覚えていません

戊辰戦争の頃からの英霊が祀られているんですね

                 

始めて資料館に入りました。

失礼ながら何の感慨も無く展示物を見学していましたが

ふと

何体かの花嫁人形が目に止まりました。

何故、こんな所には花嫁人形が・・・

と思いましたが

嫁を貰う事無く独身のまま散花された息子さんや兄弟の為に奉納されたそうです。

花嫁人形がとっても切なかったです

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セピア色

2014-12-04 18:42:49 | メモリー





実家は白い砂浜の広がる浜辺から歩いて1分

遠浅でおだやかな波の打ち寄せる浜は夏に多くの海水浴客を呼んだ

浜に面した国道沿いに防風林の松が植えられ台風からの被害を防いだ

そんな風光明媚な景色が続く20キロ程が僕の通った高校までの道程だった

幾つかの港を過ぎ幾つかの岬を回り幾つかの大きな橋を渡った

僕は自転車通学だったが何人かの女子生徒とはバス通学だった

雨の日なんかは僕もバスを利用していて僕の乗るバス停は路線バスの終点だった

バス停の名は浜の前にあって○○海水浴場となっていた

同じバス停を利用するのは一級上のレイコさんだった

おしとやで綺麗なレイコさんは学年のマドンナ的存在で

子憎たらしい中学の先輩連中が皆、レイコさんに惚れていた

レイコさんの家は浜の前の高台にある大きな家だった

レイコさんの家の前に浜に降りる堤防があって

僕はいつもその堤防にボールをぶつけて一人キャッチボールをしていた

必然レイコさんの家を眺めながらボールを投げるんだが

同級生じゃ無いので気に留めなかった

レイコさんとは高校も同じだった

進学校だったので子憎たらしい中学の先輩連中はいなかった。

だから雨の日のバス停はレイコさんと二人だけだった

田舎の路線バスはほとんど乗客がいない

次の町までいつもレイコさんと二人

帰りも途中のバス停で皆、居なくなるので

数キロの道のりはレイコさんと二人だった

あの白い砂浜に面した小さなバス停

バスを待つ間、同じ高校に通う二人だけど

一度も会話をした事がなかった

別にレイコさんが好きだったわけじゃなかったが

ちょっとした思い出だな

レイコさん今頃どうしてるだろう




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暇じゃのー

2014-12-03 17:52:26 | メモリー

             


仕事を取り巻く環境が悪化の一途をたどっていて

こうやっていつまで自営を続けていられるだろうか・・


ピューピューと京都の町に比叡おろしの冷たい北風が吹いて。

師走の河原町の雑踏を忙しなく人々が歩いていた。

ミカドと言う名のパチンコ屋から外に出ると

 

ビルの谷間の先に鬱蒼とした八坂の森が見えた

安いビニール製の黒いジャンバーの襟を立て

穿き古したジーパンのポケットに手を入れて

祇園さんに向かってふらふらと歩き出した

19歳の年の暮れ京都に通い続けた

いつも一人で

向かった先はいつものパチンコ屋

木屋町を過ぎると四条大橋にたどり着いた

橋の中ほどで加茂の流れを眺めたら

川の流れにネオンの光が瞬いていた

その月

母に送って貰った成人式のスーツ代20万を皆、パチンコにつぎ込んだ

その日はとうとう帰りの電車賃まで入れあげた

いくら川をのぞき込んでも金は出てこない

まぬけづらから鼻水が出て来た

冷たい風にふるえた

街にもんた&ブラザーズのダンシングオールナイトが流れてた

確か昭和56年の暮れ             

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