昨日は雨にもかかわらず皇居ランに行って来ました。
東京駅からスタートします。初めて東京へ出てきた頃は自分以外の人間が皆異邦人に思えました。
とてもオドオドとしていたのを覚えています。
昨日、山手線に揺られていてとてもリラックスしている自分を感じました。
でも東京駅の中は相変わらずの人の多さに辟易します。
皇居の桜です。雨が降っていましたが昨日しか見る機会が無いので雨に打たれながらの花見です。
千鳥ヶ淵です。今日は風が強いですが今日明日が見頃ですね
モニュメントが雨に濡れています。
頭の上にハトがとまっていました。
都会ですね
ベッドにもぐりこんで微睡んでいると薄らと昔のシーンが蘇って来ることがある
夜更けの電車に一人、僕は乗っている
乗客はまばらで、ガタンゴトンと電車は闇を走っている
街の灯りは人魂を曳くように後ろに流れ、
たまに警笛がピーと鳴りカンカンカンと点滅した踏切を追い越してゆく
ただそのシーンだけが思い浮かぶ
昔、橋が架かってない時代に四国から都会に出るには飛行機か船に乗るしかなかった
高校を出た頃うちの田舎から神戸港行のフェリーボートが出ていた
田舎の港を出航するのが夕方の5時そして神戸港に着くのが夜の10時40分
ドラの音と共に故郷の岸壁を離れる
学校の卒業とともに殆どの若者がこの岸壁から故郷を離れた
兄や姉もそして母も
皆、一人ぼっちで都会に向かい
一人で見知らぬ土地に立ち向かった
そしてある者はまた一人でこの岸壁に戻って来た
神戸港に着くと宝石を散りばめた不夜城のような夜景が僕を迎えた
あの瞬く灯りの下一つ一つにいろんな人生がある
乗船客もまたそれぞれの目的地に向かって船を降りる
僕の場合、阪神の青木駅か芦屋駅で梅田行きの電車に乗り換える
そして梅田から終電間際の阪急京都線に乗った
シャッターが閉まり人通りの途絶えた寂しい商店街を抜け
曲がりくねった路地のどん詰まりのアパートにやっとたどり着く
裸電球のスイッチを入れ万年床に潜り込む
遠くで回送電車のピィーと言う音が聞こえた
人生と言うのは夜空を永遠に走り続ける銀河鉄道に乗ってるんじゃないだろうか
目的地は分からず、まばらな乗客は家族だったり、友人だったり、
走ってる途中で警笛が鳴ったり流星群に襲われたり
誰にもその終着駅は分からない
今朝は昨晩の残りのカレーにサラダです。
私は基本的に夜はカレーを食べません
夜明けが徐々に早くなって来てウォーキングも早く出られるようになったのでサラダを作る余裕が出て来ました。
おまけは先日撮ったユリカモメです。
今朝は来週に行われる介護認定審査会の資料を整理する為に職場に来ましたが・・・
まったく、やる気が起きません
今日もふらふらとどっかへ出かけようかな
いつも行く公園に河津桜と梅の花が満開でした。いつもはまだ日の出前なので花を愛でません
今日のこの時間も6時前なのでまだ暗いんです。
桜の花も綺麗ですが個人的には地べたの雑草の花も好きです。
今日はこれからどないしょ?
風呂屋にでも行くかな
アリスの曲の歌詞の中に
「何もいいことが無かったこの街で」のくだりがある
実家を出て暮らした街は三つ
はじめて暮らした街は大阪の小さな町、高校を出て18~19歳の2年間
歌詞どおり何もいい事は無かった
その代り
ここでの出会いがその後の自分の人生を誘った
他人様から見ればどうでもいいようなちっぽけな人生だけれど
自分の性分からして早めに進むべき道と出会えたのはありがたかった
19の歳の夏の終わり・・
騒々しく店に軍艦マーチが響き渡っていた
77・・・7
「おお!揃た揃た、そろたでぇ~フィーバーじゃ!」
「あっ!俺もや俺もそろた」
「あれ!、僕は3がそろった」
(えっ?わしはそろてへんで)
周りを見渡したら皆、いっせいに7と3の数字が揃いだし
店員が忙しげにパチンコ台に紙で出来た白い花を貼り付けた
「おお!こんな事があるんか!ここのシマ(列)皆、フィーバーしとるでぇ~」
(いや、わしはフィーバーしとらんて・・)
自分の列も後ろの列も皆、一斉にフィーバーしてパチンコ台が白い花で埋め尽くされたが
自分の打つ台だけはいくらつぎ込んでも数字が揃わなかった
皆が喜んでいるんでつられて泣き笑った
とうとう有り金全部入れあげた
「けっ!けったくそわるぅ~~」
腹がへっていたが、飯代もパチンコにつぎ込んだ
アパートへの帰り道、商店街を通ると、うどん屋からうどんの旨そうな匂いがした
(また今日も買い置きのコーンフレークに水かけて食わにゃならん)
ズボンのポケットに手を入れて肩を落としながら歩いた
その頃は将来の目的も先の見通しも何もなくただ毎日、パチンコ屋に通っていた
目的を探そうともしなかった10代最後の年
アパートに着くとアパートの前でバットの素振りをしている青年に出会った
(えらい、元気な奴やな、ここで見かけん顔やな)
と思った。
彼はアパートの新入りで何度か顔を会わすうちに口を聞くようになった
「キャッチボールの相手してくれへん?」
彼、タケイシ君はズボラで運動嫌いの僕をよく誘った
タケイシ君はたばこもパチンコもやらない健康体で高校時代は野球部だった
飲む打つ昼寝大好き浮浪体の僕は高校時代、これしかないと言う帰宅部だった
何度かキャッチボールの相手をした
話をしてるうちに彼が同い年で同郷だと分かった
それとこのアパートは仮住まいと言う事だった
タケイシ君は放射線技師の卵で夜間の学生だった
昼は病院で助手をしていた
何でも学費も病院から出ていた住まいも病院持ちで
病院が職員用の新築マンションを建築中だったからその間このアパートに居た
僕は金があるとパチンコ屋通いだったから年中文無しだった
堅実なタケイシ君は病院から給料も出ていたから
よく居酒屋で奢って貰った
ほろ酔いぎみになるとタケイシ君は僕に説教をした
「そんなんやあかんやん」
僕は「えへへ」と笑いながらタケイシ君より大酒を飲んだ
なさけない事に同い年の真面目な青年に奢って貰うのに何も恥じてない自分がいた
タケイシ君のマンションが出来上がって遊びに行ったら
「タケイシ君いる~~?」
やさしい看護師さんがお菓子を持って来てくれた
そしてその頃はまだ珍しかった鉄のドアに青い絨緞敷きのおしゃれな1Kのマンション
自分の暮らすボロアパートとえらい違いだった
同い年のタケイシ君には将来の職業がすでに決まっていて道が切り開かれていた
僕には何の手立ても無かった
こう言う職業選択の道がある事を知らなかった
自分の出た高校は成績が悪くても、誰もがとりあえず大学の進学をめざした
大学を出た後、どんな職業に就くかは分からない
人間は目標と言うか到達点が分かれば強い
今、やるべきことが分かるから
タケイシ君に聞いてみた
「僕もこんな‘クチ,ないか?」
「あるやろけど、学校に受かってから学校に紹介してもろたらええねん」
タケイシ君に学校のパンフレットを見せて貰った
学校の名は行岡だった
行岡には行かなかったが
現在の自分に繫がった
その後、結婚するまで衣食住を職場に面倒みてもらった
その時、大阪で暮らしていた町に、数年前、行岡の学校が出来た
見せて貰ったパンフレットが行岡じゃなかったらまた違った人生を送っていただろう
今朝の朝ごはんです。ちょっと使い古したシートが汚いですが・・
典型的な日本の朝ごはんと言いたいところですが
アジの干物はメイドイン、オランダです。6匹ほどで300円ほど
キムチはお隣の国の発祥ですね
納豆の大豆はどこからだろう・・・
大根おろしにシラス、それにご飯とネギは100%国産です
私の食材はけっこう国産率が高いと思われます。
この間の雨の日の我が家の老犬の姿です。
カッパを着せられた途端、何故か観念します。
カメラに振り向きもしません
昨日は久しぶりに何も予定の無い休日だったので都内に出かけました。
地元の吉野家で朝飯を食べて南千住に行きました。
泪橋近くのアーケード街です。気を付けてないとおじさんが道路に寝ています。
風邪をひかないか心配になりますが
ちゃんと布団を敷いています。(道路やんか)
ここは明日のジョーのふるさとです。
けっこう昼間から酒を喰らってる人がいます。
昔、初めてあいりん地区に行った時(楽しそうやな)と思ったのを思い出しました。
数年前の僕なら絶対に参加したところですが、最近どうもお酒の量が減って来ました。
たぶん一生に飲むアルコールの許容量を飲んだんだと思います。
浅草から東京湾方面に向かって隅田川テラスを歩きました。途中テラスが途切れてる場所は迂回しました。
所々江戸の昔を思わせる建物がありました。
ほぼ一日中室内にいるのでたまには広い場所にでるのもいいですね
この日は勝どき場所から築地方面まで歩きました。
月島のもんじゃ街や築地も観光客で一杯でした
築地の場外から少し外れた寿司屋さんでランチを頂きました。
1050円でしたが‘大当たり,でした。シャリの小さいのが良かった
花見の時にまた伺うと思います。
この後浅草まで帰ってひとっ風呂浴びて帰りました。
とても充実した日曜日でした。
あかね色に空が染まり 初夏の暖かい風が丘の上に吹いた
眼下の目黒のビル群が夕焼けを背景に浮かび上がった
ここからは冬の晴れた日にくっきりと富士山が見え
夜は夜景がきれいだった
旧山の手通り、通称大使館通りに面したその高台の公園は近所のお金持たちが集うおしゃれな公園だった
大使館通りにはうどん屋は無かった(どこと比べてるんや?)
僕はベンチに腰を掛けて彼女から借りたキーボードの練習をしていた
傍らにはゴールデンのベンが座っていた
隣のベンチに穏やかそうな老夫婦が座っていてよく見ると元総理の三木氏だった(ほんとに)
ベンの頭を撫でようと近寄って来た外人女性はテレビで見かけるフランソワーズモリシャンさんだった(ほんまやで)
公園下は青葉台の高級住宅地で美空ひばりさんなんかが住んでいた
その頃、代官山近くのアパートに住み、大家の飼い犬を連れてよく西郷山公園に散歩に出かけた
「いたいた、ヒルサイドテラスに行ったらいなかったから」
近所のアパートに住む同級生のたかしがやって来た
「今晩ディスコに行かない」
「どこの?」
「新宿のB&Bか六本木のクラブD、クラブDならVIPが使えるから女の子も誘いやすいし」
「ダメだよ、今度、原宿に高校の先輩がオリジナルブランドの店を出すから今夜はパーティだって」
「へぇ~先輩っていくつ?」
「21かな」
「原宿って最近、タケノコ族とかが大勢いて煩いんだよな」
「あっ!原宿だったら僕のポルシェ使っていいよ」(これは嘘くさいな)
「いいよ健康のために歩いてくからさ」
「それと昨日学校へ来なかったけどどうしてたの?」
「ああ女の子誘って赤坂へ行ってたんだ」
「TBSの地下に美味い寿司屋があるって聞いてたから、それともう一件ロシア料理の店に寄ったらボルシチとウォッカが旨かったよ」(きんつるラーメンはどうしたんや?)
「今度、ニューオータニに部屋もとっとこうと思ってさ・・・わはは♪」
「あそこの窓は隙間風なんか入って来ないよ」
(何の話じゃ?)
「それと、そのポロシャツ似合うね」
「ラルフローレンさ、渋谷の109で買ったんだけど」
「大阪にいた頃は上から下までダイエー茨木店だったけど・・・ははは♪」
とかなんとか言ったかどうか忘れたが
上京して生活が一変した
昭和57年だったか
代官山のアパートの隣の1Kの分譲マンションが5000万で買い手がみつからないまま
2年後には2億になった
東京と言う事で
親父はお金が大阪よりかかるだろうと仕送りを10万にしてくれた
親父に黙っていたが学校は夜間で昼はむちゃくちゃ楽な仕事で3食付きで
15万ぐらい貰っていた
たかしはストレートに仕送りを30万程貰っていた
19歳で無職の年末、四条大橋の上で鼻水を垂らしていたら
20歳の年末の忘年会は赤坂の料亭で迎えた2次会は六本木のクラブだった
世の中に徐々にバブルの風が吹いてきた
今、思うと自分も何とかプチバブルを経験できた