今日は初めて川崎大師にお参りに行きました。
もうこうなったら仏頼みしかありません
川崎大師には表参道から仲見世まであってこれほど大きなお寺だとは思いませんでした
帰りに東中野でそうめんを食べて
初めて新大久保に行って
(おっさん一人で行っても全然おもろないし)
30年ぶりに新宿の寄って来ました。
どうも新宿は肌に合わんわ
おっさんはやっぱ浅草やわ
明日も仕事か
いややな
今日も暇やな
冷たい雨が降っとるから仕方ないか・・・
(最近、雨降っとらんでもこうなんやけど)
わしに誰ぞ‘現ナマ,の入った虎屋の羊羹、くれんかのぅ~~
ほんま
「越後屋、おぬしも悪じゃのぅ~~」
とか言ってた
テレビに出とった悪代官と一緒やな
昔、一人暮らしをしてた頃
よく母親が小包を送ってくれた
干物やみかん、インスタントラーメン、お菓子などと一緒に
隅の方に封筒がいつもこそっと入っていた
中を開くと2千円程のお金と手紙が入れられていて
手紙に
「お父ちゃんに内緒で入れておくから一生懸命勉強するんやで」
とか書かれていた
(お母ちゃん、おおきに)
・・と、その時は胸が熱くなるんやけど
すぐにその金、握って
一目散にパチンコ屋に走ってたな
ほんまに絵に描いたような親不孝もんやった
今もやけど
外は氷雨が降っている
お客様は誰もいない職場にはまぬけ面のおっさんが一人
有線から懐メロが流れて来る
明日の夜中から雨が雪に変わるかもしれない
初めて本格的な雪を見たのは
19歳の冬
4~5日で‘クビ,になった玩具問屋のアルバイトで最初で最後の配達の助手として京都方面の玩具屋さん数件を周った時だった
初めて嵐山に行き桂川の土手から渡月橋を見た
京都市内を数軒回り高速道路を東へ向かった
京都を過ぎ滋賀に入った頃か記憶にないが
確か琵琶湖バレイの看板があった
えらい寒いなと思ったら
空から大粒の雪の結晶が降って来た
すると見る間にアスファルトの道路を白い絨緞が埋め尽くして来た
運転手の社員が
「けっ!難儀やな」
と車にチェーンの装着に取り掛かろうとした時
僕は胸が一杯に高鳴った
「これが雪や、綺麗やな」
目に映るありとあらゆる物を白く覆ってしまう
テレビでいつも釘付けになった北国の風景だ
僕の目頭は熱くなった
その日から3か月を待たずに僕は東京に上京した
その後、雪が降っても何も感じなくなった
でもあの日の感動と同じ様な感動が人生にあったかな?
夕方5時半、ジャンジャンジャンと言うドラの音を合図にフェリーボートが故郷の岸壁を離れた
船は軽い上下のピッチングを繰り返しながら沖に向かう
カーペット敷の2等客室は升目に区切られ
雑魚寝の客に見知った顔がチラホラ窺えた
デッキに出ると船は重いエンジン音を響かせながら
暗い海を船首で切り裂きながらゆっくりと進む
暗い海の彼方にどこに向かうのか他の船の灯りがぽつりぽつりと見えた
18歳の自分自身の人生もどこに向かっているのか分からなかった
船の到着地は神戸
乗船して5時間が経とうとした頃、急に乗船客の動きが慌ただしくなり
船が神戸港に近付いたのを感じ取った
荷物をまとめ下船口から陸を眺めていると急に宝石をまき散らした不夜城のような神戸の夜景が視界一杯に広がる
やがて船はその不夜城の門番に合図を送るかの様にボーと言う汽笛を2度ほど鳴らした
船は岸壁に滑り込むように横付けされ陸の作業員がビットに縄を繋ぐ
乗船客は我先に下船する
客のほとんどは関西在住の人々で神戸に着くと即
皆、明日からの労働や学業と言った現実が脳裏をよぎった
深江のフェリーターミナルから阪神芦屋駅に向かう
まさかこの時から十数年後、大震災でこの辺りが壊滅的被害に遭おうなどとは誰も知る由も無かった
阪神芦屋発23:00梅田行き
まばらな乗客の中に小さな女の子とその母親が乗っていて
女の子が自分の事を見つめる視線に気づいた
僕はうつろな目で流れゆく車窓を見ていた
淡々と後ろに過ぎ去る夜陰の風景が大阪で無意味に過ごしている時間と同じ様な気がした
尼崎が過ぎ梅田に着いた
北の繁華街は喧騒の時間が過ぎ街はひっそりと寝静まろうとしていた
酔客もほとんどが今晩の寝床に着いた頃だろうか
阪急の梅田駅に向かう
梅田発23:30河原町行き
終電近くでほとんど乗客がいない
淀川を渡り十三を過ぎ急行の止まる茨木の次の小さな駅
23:50阪急総持寺駅着
あと10分で日付は変わろうとしている
町は暗闇に包まれて人影は見えない
改札を出ると
駅前にいつも入り浸ってるパチンコ屋の看板が僕を迎えた
(お帰りー寂しかったで、明日待っとるで)
高架をくぐると毎日食べに寄る立ち食いの阪急うどんがあって
どぶ川の流れる小さな商店街を抜けると
古い団地が立ち並んでいる
団地を過ぎコインランドリー前の小さな路地を何度か曲がると
どん詰まりに建つ古いアパートが僕を迎えた
(お帰り帰って来たんかいな、帰って来て何すんねん?)
管理人室前の下駄箱を開け自分の上履きを出すと
踊り場のある木造の階段を二階に上る
自分の部屋は角部屋だ
部屋の引き戸を開け薄暗い電灯を点けると
三畳一間に万年床が敷いてある
万年床が僕にささやきかける
(待ってたで、お前のオアシスはこの万年床だけやで)
万年床に座り込んでふと考えた
(明日から何しよ)
もう来年の3月一杯をめどにこの仕事を辞めよう
あと1年と少し
その間にやるべき事と今後の取り組みを考えよう
学生の時から僕の生活の糧を支えてくれた
昼間は病院で下働き
夜は学校
良い時代だったんだろうな
今はダメ
僕の後ろを歩んだ後輩たちに僕の歩んだ同じ道はもう無い
娘達にも別の道を歩ませた
しかし運命のバトンは渡せた
どうもあの日から運気が下がったしまった
去年の娘の大学の卒業式
大学は素晴らしい環境に恵まれていて
大学のホールには大勢の親御さん達が詰めかけていて
僕は客席の最上段の片隅で式の進行を見守っていた
しかし、僕には他の父兄達と別の感傷に浸っていた
僕の胸に去来するのは
自分自身が娘と同じ歳の卒業式
30数年前
その時の小さな学校のホール
恩師
恩師に言われるがまま見知らぬ土地の就職先に赴き
そのままこの土地に住着いた
娘の卒業式が進行している
壇上には大学の理事長に学長それに教授陣
30数年前、僕の卒業式に出席していた僕の二人の恩師
その二人が目の前の30数年後の娘の卒業式にも列席している
一人は理事長として
もう一人は医学博士の教授として
娘にとってはちっぽけなバトンだろうが
僕自身は学び舎だけでも繋げたかった
あの日思ってしまった
(もうええか)
と
昨日は流山
今日は沼南
明日は野田
副業に昼休みはあちこち走り回ってる
・・・が
本業はまったくダメ!
閑古鳥が鳴き
無駄に人件費だけが浪費されている
まだいけるんちゃうか
ひょっとして大物?のお客さんが大挙してくるんとちゃうか
こんなはず無いやろ
・・・とか思ってるけど
この商売もう終わってるんだろうな
今日、バイト先の施設で高齢の利用者達とスタッフ合わせて
「あなたの将来の夢は何ですか?」
と質問して
皆、それぞれの思いを答えた
もう棺桶に片足を突っ込んだ連中(自分も含めて)に夢もへったくれも無いだろうが
夢を死ぬまで持ち続けるって事は素晴らしい
人生諦めた時点で終わりなんだろうな
僕の過去の人生において
将来の夢を描いた事も無ければ
夢を掴もうと努力した事も無かった
こんなくたびれたおっさんでも夢を持てるだろうか
ほぅ~~~~
○MAP解散か
わしにとっちゃ今晩の晩飯のおかずよりどうでもええ事やな
日経平均下がりまくり
そりゃそうだアベノなんたらって言うけど
要はお金持ちはよりお金持ちに
貧乏人はさらに貧乏に
格差が開くばかりなんだもんな
所得の増えたお金持ちがそれでお金を使って下々まで回すかと言えば
使わないんだな
お金はお金持ち達のところで止まったままなんだ
老後に備えてるのかな
老後・・何が一番必要かと言うと
やっぱりお金なんだよ
貧乏人はだいたい老後に苦労する
わしなんかその最たるもんだろうな
東京に出て来て109のバイトを2時間で辞めたあと
ぶらぶらしていたが入学式までまだ日にちがあった
その間、センター街のパチンコ屋に入れあげた
あの頃のパチンコ屋はマイクで煽る店員とかがいて
「はいはい大阪弁のお兄さんまたまたヒット~♪」
とか言うもんやから熱くなってすぐに持ち金が無くなった
東京の無職な男にだまくされなかったが
飯し代にも窮するようになった
(まだ学校も始まっとらんのに)
渋谷の駅からアパートに帰りしなに何気にビルの壁を見たら
弁当屋の求人票が出ていた
時給は忘れたが
「賄付き」とあった
弁当屋もアパートのすぐ近くだった
(こりゃええやん!学校始まるまでここでバイトしよ)
と即決でバイトを決めた
仕事は弁当屋の鍋や器洗いだった
その頃の僕は労働意識が皆無だったので
仕事は手抜きで率先してさぼった
人が見ていないと外でタバコを吸った
一緒に働いていた同じ洗い場の青年がくそ真面目だったので
ほとんど仕事は彼に任した
(ほんま東北の青年はよう働くのぅ~)
と大阪から出て来たばかりのアホは感心した
それでいて賄いが出ると人一倍食った
そんな所を寅さんの映画に出て来る‘タコ社長似,のおっさんがちらっと見ていた
バイトを始めて2~3日が経った頃
その時も洗い場を真面目な青年に任してさぼってタバコを吸っていた
そしたらタコ社長似のおっさんが僕に
「君、仕事いつ辞めるの?」
・・・て聞きよる
このおっさんは本当にこの弁当屋の社長さんだった
始めてここの社長さんに話しかけられた言葉が
「いつ辞めるの」
だった
聞かれた僕は
「今、辞めます。」
って答えた
ほんまロクな奴ちゃ無かったな
(今もそうやけど)