HIROZOU

おっさんの夜明け

うわさ

2020-05-28 17:11:05 | メモリー

さっき知らないうちに急ににわか雨が降って来て

パラパラと職場の窓に雨粒が打ちつけた

(あかん!洗濯物を干したままや)

初老のおやじが脱兎のごとく裏に走る

洗濯物を取り込んでいるとゴロゴロと遠雷が聞こえ

ゴロゴロ、ピッシャー

稲光までする

(もう初夏やな)

小さい頃

夏になって日照りが続くと奥まった川の淵に鮎を突きに行った

普段は深い淵も水かさが浅くなり淵が池のようになると魚影が濃くなり

それに大物の鮎が群れていた

時間を忘れて夢中になって鮎を突いていると俄かに暗闇が迫って

遠くから遠雷が聞こえ

しだいに強い雨も降り出し

渇水で干上がった浅瀬には恵みの雨だ

萱の葉をえらからくちに通した何匹かの鮎をぶら下げて

僕は笹の木の下でひたすら雨に打たれた

いつも一人ぼっちだった

いつの頃からかその淵には河童が出るとうわさされた

わし・・・

だったりして

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兵隊記

2020-05-28 07:25:14 | 

         

ようやく昨日から図書館が使えるようになった

しかしまだ棚の本から選べなくて自分がリクエストした本を受け取るだけだ

だいたい僕はいつもこの方式なので何の問題も無いが

図書館が使えない期間にブックオフで無駄な出費を重ねてしまった

リクエストは市内に所蔵されている本の中から読みたい本を選べる

今から50年ほど前の昭和の古い本もあるから

僕が生涯にわたって読み続けたいノンフェクションの戦記物も結構所蔵されている

もうほとんど読みつくしたけれど今回、初めて読む本が2冊あった

2冊とも作者の軍隊時代あからさまな初年兵時代の記述が書かれている

古ねん兵による不条理で理不尽、耐えがたいほどの暴力、いじめ、侮辱、

どの兵隊を扱った書物の初年兵時代を扱った記述の中に例外なくこれらの内容が含まれている

数十万人が戦死したインパール作戦やニューギニア戦線を扱った書籍の中で

ほとんどの初年兵たちの生き残れなかった理由に実戦に慣れて無かったとあるが

敵の弾丸や爆撃で死んだ数よりその何倍も伝染病など戦病死や餓死が多かった戦線で

生水の煮沸などを出来る自由な時間を有する古兵達と雑用に追われ直接生水に手を出さざるを得ない

初年兵達の伝染病への罹患率が死亡率に大きな違いが出たのは紛れもない事実だ

軍隊と言う特異な環境の中で理不尽な行いはどこの世界の軍隊でも同じだけれど

日本人独特な行為も苛まれる

最近、テレビ新聞、ラジオのようなマスコミ、SNSと呼ばれる世界もいろんな問題を孕んでいるが

戦記物を読んでいると日本人は昔から弱い者いじめでけっこう他人の足を引っ張り、尚且つ貶めて

自分の事は棚に上げて自画自賛できるのはけっして今に始まった事じゃ無いな

と思うと最近の風潮は幾らかしょうがないかと納得できる

典型的な日本人の私です

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かやくご飯の思い出

2020-05-26 15:23:46 | メモリー

昨日から体調を崩しているので職場で寝泊まりしている

もう築40年以上のここのテナントはそう言えば僕が初めて一人暮らしをした大阪のアパートと同じくらいだな

昔々、、、

朝は必ず9時半に起きる

三畳一間のゴミ屋敷に湿気った万年床、便所の手洗いのような台所で顔を洗って頭をもたげると

トタンで目隠しされた窓の隙間から鉄橋を渡る茶色い阪急電車が見えた

ピーと警笛が鳴った

もうあの電車には通勤通学者はほとんど乗っていない

この時間、学生は教室で授業を受け会社員は職場で仕事についている

ふらふらと立ち上がり駅に向かった

文化住宅が立ち並ぶ路地を抜け団地を横目に小さな商店街に入る

プラスチックの笊や竹の箒を売る雑貨屋、どぶ川の上に数件並んだ飲み屋、不動産屋

そして駅前の踏切の手前にバラック建ての小さな店があった

阪急うどんの店だ

立ち食いか座椅子か忘れたが歳とって腰の曲がったおばあさんが3人程忙しげに働いていた

もうこの時間になると客はポツリポツリで僕は毎日パチンコ屋の開店する10時前に店に来た

一人のおばあさんが

「兄ちゃん今日もパチンコ屋に出勤かいな、毎日遅刻もせんと律義なこっちゃ」

「ほう兄ちゃん浪人しとんのかいな、うちとこの孫は関西学院に通うてるんやけどこれが出来が悪いんや」

「パチンコ屋に通うてんのはロクな奴がおらへんから真面目な兄ちゃんも気ぃつけた方がええで」

とか何とかおばあさんは話かけて来た

阪急うどんでは毎日‘かやくごはんセット,を頼んだ

かやくごはんときつねうどんとタクアン2個で270円

それからパチンコ屋の開店に向かう

顔見知りが先を争ってパチンコ台に殺到する

「今日はたのんまっせ!今日出ぇへんかったらおまんまの食い上げじゃ」

とか言ってる

かやくごはんセットは不思議に毎日食べていても飽きなかった

数年前梅田の駅で久しぶりに食べたけど

旨くなかった

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モーニングサービスの思い出

2020-05-19 09:02:44 | メモリー

現代の世の中は人間関係が希薄で油断をしているとすぐ足をすくわれてしまう

テレビやラジオを点けるとずっと罵詈雑言で

こういう耳障りな事が普通になって称賛は結局、自画自賛になってしまう

昔は貧乏でも結構精神的に余裕があったような気がする

19歳の時、土木作業のアルバイトをした事があって

毎日、作業員が現場に向かう前に喫茶店で集まってモーニングサービスを食べてから出発するんだ

支払いは先輩作業員がごく自然に済ます

仕事も僕みたいな役立たずの者でもどこにでも必ず役立たずがいるもんだと言う事で成りっ立ていた

アホ!ボケ!カス!とやりあいながらも

今で言う

ワンチーム?だったんだろうな


今はコロナのせいで声高に誰かが‘ワンチーム,とか言ってるけど

聞いてるもんは皆、他人事に聞こえる

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きつねうどんの思い出

2020-05-19 08:01:34 | メモリー

僕が高校生のころまで実家の隣で祖母が小さな衣料品店を開いていて

その頃にはもう下着程度しか売れて無かったが最盛期には町に洋服店が一つしかなかったことと

まだ車社会じゃ無くて近隣の大きな町に町民が出られなかったからけっこう繁盛していた

祖母は年に数回、大阪に洋服の仕入れに行っていた

うちの町の港から大阪南港まで汽船が就航していて夜うちの港を出ると早朝に大阪に着いた

僕もたまに仕入れのお供で連れて行って貰ったんだが

その頃の洋服の仕入れは船場だ

小さな老舗の店から大きな店まで幾つも店があって祖母は店先で商談がまとまると腰巻から札束を出して支払をした

店の大将も店員も誰も気にしない

現在、店先で腰巻から札束を出したらなんだと思われるだろう

仕入れが終わると祖母は両手と背中に風呂敷を背負って地下鉄にの駅に向かう

そうすると必ず誰かが

「おばはん、もちまっさ!」

と言って荷物を持ってくれるんだ

僕が

「おばあちゃん、ちっき(小包の郵送)頼んだらええやん」と言うと

「あほぬかせ!ちっきは金がかかる、頭下げるんはタダや」

「それにな両手に風呂敷を持ってると必ず誰かが手伝うてくれるんや」

と言ってたが現代だったら誰も持ってくれないだろうな

仕入れを終えて帰りには必ずうどん屋に入った

まだその頃、世間では外で外食をする風習が無かったのでうどん屋に入るのがうれしかった

僕は必ず‘お揚げさんの入ったきつねうどんをねだった

今でもきつねうどんが大好き

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キンツルラーメンの思い出

2020-05-18 08:25:53 | メモリー

現在でも売っているのかどうか知らないが

昔、関西圏とか四国には‘キンツルラーメン,というインスタント麺が売られていて

おそらくその頃のインスタント麺の中では一番安くって貧乏人の心強い味方だった

僕が一人暮らしを始めたのは1980年頃だったか

ピンクレディーや聖子ちゃんの全盛期でステレオタイプのカセットテーププレーヤーが流行っていた

その頃の親からの仕送りは月に7万円で当時は現在と違って家賃が安かったので充分にやって行けた

確か当時大阪で4畳半か六畳一間のアパートの相場が1万2千円~1万6千ぐらいだった記憶がある

僕の住んでいた3畳間のアパートはその頃でも破格の8千円だった

7万円で充分にやって行けるはずなんだけれど

僕の場合は違っていて下手をすると1週間足らずで使い切ってしまう

原因はパチンコで仕送りが送られてくるとわき目も振らずにパチンコ屋に駆け込んでしまう

もうそうなったら食べるものにも事欠くし、ましてや風呂屋になんか行かれない

結局親に泣きつくかしか無いんだけど

泣きついて送って貰った追加の仕送りも結局パチンコにつぎ込んでしまう

一人暮らしを始めた最初の夏だったかもう金欠で万策尽きてしまった

もう水しか無い

それで一計を案じたんだけど

その頃は新聞回収の車が回って来て古新聞を重さをはかって買い取ってくれていた

もちろん大した金額じゃ無くて大体の家が軒下に置いておくだけだった

僕の住んでいたアパートの周りには文化住宅が並んでいてそれぞれドアの前に古新聞が置かれていた

僕はそこに目を付けた

僕自身は新聞なんか取って無かったんだけど

新聞の回収の声が聞こえるとあわててそれらを集めて来て新聞回収のおっさんに差し出した

トラックの荷台のおっさんは僕の事をギロっと睨んでさっさと新聞の重さをはかって

おもむろに小銭を差し出した

今でも覚えているんだけど30円だ

乞食の様な思いをして集めた古新聞の値段が30円だった

その30円を握って阪急オアシスに走った

その時、30円で‘キンツルラーメン,1個と4分の1ぐらいのキャベツが買えた

アパートに帰ってキャベツ入りのキンツルラーメンを食べたんだけど

うまかった

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炉端焼きの思い出

2020-05-17 11:15:15 | メモリー

お酒が好きで毎日飲んでるほぼアル中だ

お酒を初めて飲んだのは高校生の時で

僕は自転車通学で自宅から高校まで20キロ程離れていて三つか四つ他所の町を越していくんだが

その町々に同級生がいた

学校帰りにそれぞれの町の祭りがあると同級生の家にお呼ばれされるんだけど

どこでもごちそうと酒が出てくるんだ

僕の出た高校は校則がすごく厳しかったんだけど何故かお祭りの飲酒には寛容だった

まあ‘お神酒,って言う意味もあるんだろうか

通学途中に隣の高校の連中とすれ違うんだが

祭りをやってる方向から来る高校生達が皆いちおうに真っ赤な顔で自転車をこいでる

坊主頭で学ランを着た高校生が通学途中で一杯酒をひっかけているんだ

そんな環境で育ったせいか高校を卒業するともう飲み屋に入っていた

でも僕は酒以上に好きなものがあった

パチンコだ

酒は好きなんだけどパチンコをするといつもスカンピンで酒が飲めない

そんな時、ぼくにいつも酒をおごってくれる奇特な奴がいた

同郷で同い年のタケイシ君だ

タケイシ君は夜間のレントゲン技師の学校に通っていて昼間は病院勤めだった

タケイシ君は三食共病院で出して貰っていて住まいも病院持ちだったから羽振りが良かった

それで給料日とかに僕を飲みによく誘ってくれた

いつも行くのはその頃流行の‘炉端焼き,だった

今では見かけなくなったが大きいひしゃくにつまみを乗せて客に出すあのスタイルだ

この歳になってもたまに思い出すシーンなんだが

元高校球児でパチンコなんか一切しない真面目なタケイシ君が

帰宅部でパチンコばかりやってる僕に炉端焼き屋のカウンターで説教してるシーンだ

普段、えらそうにしないタケイシ君が酒が入ると僕に説教をした

「そんなんやあかんやん」

って

あの頃、たぶんうっとしいなと思って聞いていたんだろうけど

炉端焼き屋のあのシーンをふと思い出す事があるな

もうこんなもん書いてないで家、帰って酒飲もうっと

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ハンバーグの思い出

2020-05-17 10:19:27 | メモリー

僕らの小さい頃は今と違ってロクなもんを食べて無かった

毎日、おしんこか魚の干物、肉の入っていない野菜の煮物

たま~に豚肉のすき焼きかカレーライスぐらい

あの頃・・昭和40年前後か

僕が普段食べた事が無いものを食べてる画がテレビに出てくるようになった

フライパンで黒い塊を焼いている

ハンバーグとか言うらしい

母に

「お母ちゃん、最近、都会の子はあんなん食べているらしいで」

って言ったら

「うちでも作ってみよか」

言うんでちょっと見てたら

すり鉢で魚をすり身をこしらえてる

「お母ちゃんハンバーグに入ってるんは肉みたいやで」

「肉は高いから魚のすり身でもええんちゃう」

と言うので魚のすり身入りのハンバーグ似の物を作ってくれた

後に大阪のおばさんが実家でミンチ肉の入った本物?のハンバーグを作ってくれた

母も作り方をちらっと見ていたが

うちではミンチ肉の入ったハンバーグが食卓に上る事は無かった

母のこだわりだったんだろうな



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寄せ鍋の思い出

2020-05-17 09:41:50 | メモリー

僕が初めて本格的な寄せ鍋を食べたのは赤坂の高級料亭だった

実家にいる時はすき焼きは食べたけど土鍋で寄せ鍋なんか初めてで

ましてや下足番のおじいさんまでいる料亭でだ

その頃僕は夜間の専門学生で昼間は病院の雑用をしていた

話はそれるがその頃、その病院は夜間の医療系の学生が大勢いて

後に病院勤めをしていた時懐かしい出会いが何度かあった

オペ室雑用係に木村と言う奴がいて

むっつりスケベで根の暗い木村と爽やかな性格の僕とは気が合わなかった

そうしたらその木村と何十年後に再会してしまった

仕事上で毎週顔を会せなくてはならなくなってとても気まずい思いをした

口も聞かなかったけど・・

なんやったっけ?

寄せ鍋か

僕は病棟の雑用係だったんだけどナースは僕達をエイドさんて呼んでいた

大病院だったので病棟クラークさんもいて婦長とかは学生の生活面まで口出ししてた

あの頃のDr達特に部長クラスになると役得?が多かった

それでその年の暮れ病棟の忘年会が開かれたんだけど

僕みたいな下々も会費無しで呼んでくれて

皆、部長先生が出した

なんせ場所が赤坂の料亭なもんだから

見た事も無いようなご馳走が並んでいた

特に初めて食べた寄せ鍋には感動した

二次会は六本木の高級クラブに連れて行ってくれた

赤坂の料亭も六本木のクラブもそれ以来行った事が無い

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焼肉の思い出

2020-05-16 10:51:27 | メモリー

僕が初めて焼肉屋で焼肉を食べたのは大阪環状線鶴橋じゃ無くて手前の玉造の駅前だった

その頃、2度目の受験に失敗し将来を模索している最中で

とりあえずアルバイトでもするかという事で軽い気持ちで人生初のバイトを経験した

求人誌に「簡単な軽作業」「高賃金」とあったので

ほうほう!簡単な仕事で高い給料をくれるのか、こりゃええやん

と、のこのこと面接に出かけた、確か南森町の駅で天六の商店街近くにあった

その会社に行くとボロボロのトラックの荷台に作業道具やヘルメットが積まれてあったので

一瞬?と思ったんだけど

まあええか!と雇って貰った

そうして仕事を始めたら案の定、肉体労働の土方仕事だった

現場まで行って先輩土方の助手をするわけなんだけど

ああいう世界って‘助手,って言わなくて‘てもと、って言うんだよね

「ひろ造は今日、高木のおっちゃんの‘てもと、やってくれるか」とか

だいたいが先輩土方とペアで仕事をするんだけど

いろんな先輩がいて現代で言う‘ホスト,みたいのから

わしは生まれた時から土方一筋や!とか言うおじやんやら

えっらそうにガタイだけ大きくて頭の中からっぽでいばりくさってる奴とか

そいつの背中に墨が入っていて

タオルで汗を拭くときこれ見よがしに上から目線するんじゃ

背中に墨ぐらいなんじゃい!

うちのばあちゃんの背中なんぞ背中全体お灸のあとじゃ!

・・・

なんやったかいな

そうそうバイト

それが自分で言うのもなんだけど

僕が全然役に立たない

仕方ないよ生まれながらの怠け者だし

ひ弱で肉体労働に向かない

土方仕事とは真逆の青年が土方仕事に出てるんだから

毎朝、飯場のゲージにその日のペアが張り出されるんだけど

僕と組まされた先輩土方が・・

「けっ!今日はひろ造とか、おらんほうがましやなっ!

とかあからさまにもんくたれて

現場でもなにかっちゃー皆に

「あほう!ボケ!カス!」とかいじめられて

それでも日銭欲しさにバイトは辞めれないし

現代は知らないけどその頃の土木作業員?ってよっぽどじゃなきゃー‘クビ,にならなかった・・・

頭数の問題かな?

だけど先輩土方にもいい人もけっこういて

助けてくれたりかばってくれる人もいた

ある日、先輩土方の森本が僕の仕事が‘とろい,のに業を煮やして

梯子の上からスパナを握りしめて僕を睨み付けた

そうしたらいつも僕をかばってくれる田村さんが森本に

「まあええやないか」となだめてくれて

田村さんが

「ひろ造君、良かったら今日焼肉でも食べに行こか」

って言うんで

仕事が終わって田村さんのアパートに行ったら何人か老若男女の人がいて

皆でお経をあげていた

「ひろ造君、今日はなっ!焼肉を食べる前に君の悩みを皆で聞いたるから」

「君の悩みを話してみぃ?」

「はぁ~僕は悩みなんてありませんけど」

「何かあるやろ?」

「・・・」

とかなんとかやり取りがあって

ようやく焼肉屋に行った

衝撃的な旨さだった

世の中にこんな旨いもんがあるんか!

・・と思った。

そうしたところ一緒に行ったお経仲間はほとんど肉に手を付けない

彼らは皆、貧乏で僕に肉を食べさせると自分たちは食べられなかったんだ

そんな事があって

僕は焼肉を食べられるんだったら皆と一緒にお経をあげてもええかなと思ったんだけど

何がいけなかったのか田村さんはその一回きりで僕を誘ってくれなかった

バイト先でも僕にシカトするようになった

そんな焼肉デビュー秘話でした

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