今朝はレトルトの五目釜飯にオクラ納豆、佃煮、永谷園のお吸い物
昨日のブログの記事で彼岸花と女郎花を取り違えてしまった
別物なんですね、
何だか変わった花の名って皆、彼岸花だと思ってしまった
それにしても女郎花と言う花の名も何だか悲しいね
毎年、庭に勝手に生えて来るアサガオがようやく花を付けました。
今年は琉球アサガオを育てましたがあれは種を付けなくて多年性だったんですね
初めて知った
だから年々咲くのが遅くなるこの日本アサガオ?は種を取っておいて来年早めに植え付ける事が肝要ですね
このよろよろと小さな花をつけて来年種族保存が出来るであろうかと思われるこのアサガオに
もう明日にも店が潰れそうな我が境遇と重なって見えるんです
嫌なニュースや腹立たしい事件が多くて朝以外はほとんどテレビを見ない
特に文句や綺麗事しか言わない連中を見ているとストレスが溜まってしまう
夜は一杯飲むとすぐに床に就く
昨日は秋の夜長をうつらうつらと眠っていたら
何故かローカルな夢ばかり見た
別に仲の良い友人でも無かった連中がたびたび夢の中に出て来る
農家の大きな納屋、壊れた農機具、
山の麓の廃屋
人のいない浜
どれもすごく不気味で怖くて
殆ど朝になると夢の内容は忘れてしまっているが
昨日見た夢でこれだけ覚えている
白いワンピースを着た女性がいて
顔もどこかで見た顔だ
ぞっとする顔つき
女性は刃物を持っている
夢の中で僕はその女性に腕を切りつけられる
ぎこぎこと腕を切られる
うわー!
と恐怖で叫び声をあげた時目が覚めた
僕は日頃、女性に泣かされた事さへ山ほどあるが
女性を泣かせた事は無い
たぶん
ましてや恨みを買う事はないはずだ
たぶん
でも昨夜の夢の中で僕は女性に切りつけられた
昨日は宮部みゆきさんの小説を読んで
その中に魔力を秘めた刀を霊感豊かな娘が振るって賊を退治する場面があった
たぶんそのせいだろう
ずっとずっと昔
まだ小学校にも上がって無かった頃
幽霊を見た記憶がある
隣町の浜辺に面した松林の中に白い建物のサナトリウムがあって
誰かのお見舞いにおじいさんとおばあさんに連れられて行ったんだ
ちょうど今頃の季節だったんだろう
その頃、うちの田舎では‘幽霊花,と呼ばれていた彼岸花の花が咲いていたのを覚えている
今でもその光景を覚えているぐらいだから感受性の強い子供だったんだろう
その夜は祖父母の隠居部屋に泊まったんだけど
夜中に目を覚ますと白いカーテンの様な服を着た女性が立っていた
それで怖くて泣き叫んで母屋に連れ帰って貰ったんだけど
何故かこの歳になってその日の事は鮮明に覚えている
ある程度大きくなってそのお見舞いに行ったサナトリウムに面した国道が通学路だったけど
サナトリウムは無くてそこは墓場だった
もともとが墓場だったのか
本当にサナトリウムか病院があったのかは分からないが
この時期になると赤い‘幽霊花,は咲いていた
あれは夢か幻だったんだろうか
この歳で幽霊のどうのこうのと言うと
たぶん
「お前、レビーちゃうか?」
絶対、言われるな
先週に来た台風がこれ程の被害をもたらすとは
同じ県内でも内陸部は何も無かったかのように普段の生活を送っている
僕自身生まれ育ちが台風銀座と呼ばれた室戸岬近くで夏から秋にかけて毎年のように台風を経験していて
小さい頃、台風が近づくと家の窓に親父が戸板を打ちつけていたのを覚えている
この間のこちらの台風も被害に遭われた方には申し訳ないが夜中に布団の中で台風の雨風の音を聞きながら
どことなく懐かしい郷愁を感じた
故郷の台風の音にはどっーんと岬の突堤に大波が打ちつける音も聞こえる
しかし今回の台風は僕がこれまでに経験した事の無い強風だったみたいだ
今年はこちらに越してきて初めて内陸部なのに強風の為の大規模塩害も経験した
この先自然災害は予測の付かない大きいものが来るんだろうか
先週、患っていた父がもうそんなに長く持たないと言われて数日後に家族で帰省の準備をしていたら
急に仕事の始業時間に姉から僕にすぐに帰るように言われてとりあえず持つものも持たずに飛行機に乗った
羽田まで電車の乗り継ぎが奇跡的にスムーズで空港から100キロのレンタカー移動もほとんどノンストップだった
帰路病院まで8時間、ほぼ最短時間でたどり着いて
僕が病室に着いて
「お父ちゃん」と声をかけたら10分後に息を引き取った
僕が帰るのを待っていたかのように
父の人生とはどうだったんだろう?
良い人生か
そんなに良くない人生か
たぶん平凡な人生だったろう
ただ、人並み以上に働き者だった事は事実だ
おかげで僕たち兄弟は随分満たされた学生時代を送らせてもらった
父の学生時代
父は成績が良かったので
わざわざ過疎の村から広島の中学に進学した
しかし、
中学二年の夏休みに広島市内に学徒動員中に被爆
その頃、南方に出征中の祖父は行方不明
実家からの仕送りの充ても無くなった父は学業を捨てそのまま過疎の村に帰り家業の漁師についた
父はその頃の事はあまり話したがらなかったが
「広島で原爆に会うて高知に帰る途中、徳島で汽車待つ間、眉山(びざん)に登ったんやが
徳島も焼け野原でどこもかしこも焼け跡ばかりやった」
この言葉がいつも脳裏に残っていて
今回も帰省の際
眉山が見えた時、この言葉を思い出した
90年近い父の生涯で過疎の村を出て暮らしたのはほんの数年で
その生涯をこの村で出来の悪い子供たちの学費の工面に追われた
漁師と並行して急峻な山肌にへばりつくようなみかん畑の仕事に追われ
板子一枚地獄の海と牛や馬のように地べたにとりつく山の仕事
自分自身に為に費やした時間はそんなに無かっただろう
晩酌はいつもビールの小瓶1本だけ
母が施設に入り一人暮らしになるとおかずは海苔の佃煮ばかり
唯一の楽しみは読書
他になし
僕が生まれた日とほとんど変わらない築80年近い
実家です。祖父が作ったであろう木の長椅子もずっと同じ場所に
土間伝いに迷路のようにつながって、いくつも棟があります。
父の隠居部屋から眺める庭は鬱蒼と雑草が繁っています。
小さい頃お正月の餅をついた石臼があります。
春になると山桜の花が辺鄙な寒村を多い尽くすかのように咲き誇ります。
ここから眺める桜の花は絶品です。
今日はしきりに雨と雷の音が静かな村に響き渡っています。
まるで優しかった親父を天が見送るかのように
親父がこの部屋から山桜を愛でることはもうありません
お父ちゃん