昨日は増上寺とは別にもう一つのお寺を訪ねました。
芝の大門近くにある安養院と言う小さなお寺です。
入るのを躊躇う程狭い墓地の片隅に崩れかけた墓石が4つ並んであります。
お参りする方もほとんどいないように見受けられます。
4つのお墓に刻まれている命日は皆同じ日付け明治3年1月
お墓に眠っている4人は若き土佐藩士でアメリカ留学まで決まっていたエリート侍達だ
しかし彼らは留学を前に酒に酔って騒ぎそれを注意した金沢藩士数名を死傷させ
その罪を負って藩邸で切腹を命じられた
まあ酒で大事な人生の道を外してしまう高知県人らしいと言えば、らしいんだけど
もう世はすでに明治に改元されてそれもアメリカ留学まで決まっていて
生きていればどんなに歴史に名を成したか分からないのに
大東京の墓地の片隅で眠る事になろうとは
お寺の隅っこに多くの土佐藩士らしい墓石が積み重なってありました
このお寺は何かしら土佐藩とは関係が深いお寺なんでしょう
切腹した4人の土佐藩士の話は高知でもほとんどの人が知らない話です
私も数年前まで知りませんでした
久しぶりに岩村精一郎の事をちょっと調べたら・・
来年、司馬遼太郎の「峠」が映画になるんだ・・
主演が役所広司とな
精一郎役が誰だか知らない役者さんだが
またあのシーンが大きくクローズアップされるんだろうな
小千谷会議で岩村が河井に横柄な態度をとって怒らせて
かわいい地元の娘に飯の給仕をさせてたら山形有朋に怒られてお膳を蹴り飛ばされるシーン
岩村が映像に出るところってここしか無いもんな
精一郎は3兄弟の末っ子で兄二人は精一郎より出世している
そして、世の中に出たとたん出世街道まっしぐらで
下積みが無いんだから
思慮分別も無いのが当たり前だな
だけど精一郎って明治の偉人さんを随分葬っているな
偉人ハンターやな
だけどネットで調べたら誰も精一郎の事よく書いて無いな
だけど斉藤一とかの新撰組と切り会って流山で近藤勇の断罪にも関係して
長岡の河井継之助と対峙して大久保利通の子分になって
佐賀で江藤新平を決起させて・・
全部その現場で関わったと言うのがすごいんだが
すごく無いか
とても興味深い本を読んだ、
土佐藩士、宮地團四郎が書いた鳥羽伏見から会津戦争まで戊辰戦争の従軍日記を現代文に訳
された本だ
團四郎は土佐郷士とあるから身分はそんなに高くない
初めて土佐を離れるのがこの従軍の為で京都大阪から江戸、会津までその足跡をたどる事が 出来る
従軍中はだいたい旅籠泊りで宿泊費から食事代まで支給されており
観光地巡りや、ええじゃないかの踊りに参加したり、連日の様に酒宴もある
それに毎月3両程の給料が現金で支給されており、それが途中で5両に上がっている
特筆するのは團四郎は従軍中何度も風邪をひいていてその度、医者に掛かって4~5日戦に出るのを休ませてもらっている
先の戦争よりよっぽど民主的だ
團四郎の所持する武器は7連発のスペンサー銃だ
その時代、世界で最新式の銃であの大河ドラマ‘八重の桜,で綾瀬はるか
扮する八重がこの銃を操り映画ランボーの如く敵をバッタバッタと打ち倒した銃だ
この銃はまだほとんど東北諸藩には行き渡っていなくて團四郎がこの日記中
唯一相手を打倒した戦の時、相手の持っていた銃は火縄銃だ
当時最新式のスペンサー銃対、その頃より300年も前の長篠の戦いに使われたのと同じ火縄銃だ
官軍強し!
この銃を團四郎は38両の自費で購入している、たぶん刀と同じ感覚何だろう
給料のだいたい10か月分ほどだから現代で換算すると500万円程か
この本を読んで思ったのは官軍の勝因は情報量の差なんだろうな
日記にもたびたび出て来るが風説や流言がこの時代多い
どれだけ確かな情報をより早く手に入れた方が最後に勝利に結びついている
その頃、西国の方が世界情勢への危機感が大きかったんだと思う
今から146年前の2月22日、大阪土佐稲荷神社でとある籤引きが行われた。
籤引きで何を決めたかと言うとなんと切腹だ
究極の籤引きだ
切腹をする確率は25分の16
これがけっこう高い
手なんて震える騒ぎじゃない
この月、大阪堺でフランス水兵22人を警備中の土佐藩士が殺傷した所謂‘堺事件,が発生した。
何とか事を穏便に済ませようとした新政府はフランスとの折衝の末多額の賠償金の支払いと殺傷に関与した土佐藩士20人の切腹を決定した
土佐側幹部4人の切腹は既に決まっていたから幹部を除く16人が籤引きで決められた。
その後、妙国寺で凄惨な切腹へと繫がる
11人目までの切腹が終わった時に立ち合いのフランス艦長は儀式の中止を申し入れた。
あまりにも残酷なシーンの連続に見るのが嫌になったとする説や帰りが暗くなるとまた襲撃されるのではないかと恐れたとする説
諸説いろいろとあるが私は後者だと思う
その頃まだ攘夷思想を持つ輩が闊歩していて一部そう言った計画もあったように聞く
こうして11人は切腹して果てた
武士の責任の取り方として切腹は名誉ある‘死,と考えられた
それに対して斬首とは不名誉な‘死,とされた
また下級武士や武士以外には切腹が認められない場合が多かった
こうして堺事件の11人は赤穂浪士と同じ様に名誉な死として後世に残った
しかしこの事件より4年前同じ土佐藩内で勤王の志士23人が全員斬首されると言う事件があった
司馬遼太郎の小説「幕末」の3話「花屋町の襲撃」を読んだ。
題材は幕末、龍馬、慎太郎亡き跡の海援隊士、陸援隊士と新撰組が戦った「天満屋事件」
事件の概略は避けるが登場人物に陸奥宗光、三浦安、斎藤一などがいる
襲撃側の陸奥は後に外務大臣、襲撃された側の三浦は後に貴族院議員から東京府知事
二人は元紀州藩出身で陸奥の方が一回り以上年下だが議会なんかで顔を合わす事もあっただろうが心境的にはどうだったんだろう?
案外仲が良かったりして・・
新撰組を取り扱った映画やテレビドラマに必ずと言って登場する斎藤一
そしてこの事件で初めて歴史の表舞台?に登場する人物がいる
陸援隊士岩村精一郎だ
知る人は少ないと思うが岩村は戊辰戦争から明治維新にかけて歴史の重要場面で再三にわたって登場する
精一郎自身はそんなに有名じゃないが歴史上の有名人との大きな接点が多い
精一郎を調べると評価は低いと言うより明治維新の登場人物で一番の悪人かも知れない
これは文豪、司馬遼太郎の小説が寄与してる点が大きいだろう
文豪が自身の小説で悪い奴となったら後世の人間はそう受け止めてしまう
陸援隊に入隊したのは龍馬、慎太郎亡き後だ
天満屋事件の後すぐに高野山挙兵から戊辰戦争、北越戦争時は東山道先鋒総督府軍監その時、弱冠23歳
小千谷で河井継之助で会談するが会談は決裂
原因は若輩者の精一郎の横柄な態度などらしいが
確か司馬遼太郎の「峠」?か何かにこのシーンが書かれてあった。
精一郎の若さを別としても国を二分するかの戦の中で継之助が訴える長岡の中立が許されただろうか、論じ合う余裕など無かったのではないか
精一郎は戊辰の功で永世禄高200石を貰っているからそれだけの働きもあったんだろう
戊辰後、順当に出世して行き
次に歴史上の重大事件、江藤新平の佐賀の乱に登場する
大久保利通の内密を受けて鎮圧に乗り出すんだが、これもあたかも精一郎が引っ搔き回して止むなく江藤が内乱を起こしたかのようになっている
江藤はその後、打ち首
長岡だけじゃなく佐賀に置いても精一郎の悪名が残った
おまけに新撰組の近藤勇の処刑命令も精一郎が行ったとする記録もある
精一郎はその後貴族院議員から男爵
歴史上、精一郎の悪名だけが取りざたされているが果たしてそう言う人物だったんだろうか
功績や人物評価が高かった記録もあるがそれにも増して司馬遼太郎の小説の中のイメージが大きい
維新の重要場面にこれ程登場している精一郎だが彼自身は無名に近い
波乱に跳んだ精一郎の明治維新はこの天満屋から始まった
昨日たまたま本屋で司馬遼太郎の「幕末」と言う短編集を買った
その本の第一話が桜田門外の変だ
さしずめ現在で言う‘テロ,かなんだがその事件が起こったのが154年前の3月3日
その日は雪で彦根藩の供侍は刀の鞘に鞘袋をかけていたもんだから咄嗟に刀が抜けず
それで井伊直弼の暗殺を防げなかった
それでも襲撃側18人に彦根川16人が切り合ったから双方で10人以上の死者をだし
腕や指、耳を切り落とされたけが人を出した
時代劇じゃ無いんだから一方的な勝利などありえない
調べてみて気が付いたんだが襲撃側に防戦の彦根藩士34人中、天寿を全う出来たのは襲撃側のただ二人
あとは生き残れても襲撃側は斬罪、彦根側は藩主を守れなかった罪を背負い斬首
勝てば官軍で薩摩藩士の有村次左衛門は維新後従五位を貰っているが
それにしても凄まじい時代があった
この変後維新の動乱が始まった
はよ午後の仕事に取り掛からにゃ