今日は何だか体が重いしかったるいな・・
ここんところお客さんの中にも体調を崩している方が多いし
今朝、公園に体操に行ったんだけど参加者がいつもより少なかった
毎日、大勢のジジババが葬列のようにぞろぞろと公園の周りを周回しているんだけれど
葬列と言えば何時の頃から見かけなくなったんだろう
僕の高校生の頃から葬式は葬祭場で行われるようになったんだ
僕の小さい頃は喪服を着て桶や竹竿とかいろんな物を持った葬列が通っていた
僕の田舎では葬列に長い竹の先に編んだ竹かごを持った人がいて
その中に紙に包まれた10円玉や百円玉の硬貨が故人の齢の数だけ入っていて
子供たちが葬列に集まってくると竹竿を揺すって紙の中の硬貨を撒くんだ
80歳の方が亡くなるとすると10円玉が80枚か百円玉が80枚
お金を拾いに集まった子供たちにすればもちろん百円玉の方が喜ばれる
60歳以下の方の葬儀にはお金は撒かない
60歳以上で亡くなると天寿を全うしたと言う意味だろうか
昔は子供の数が多かったので拾ってもせいぜい2枚か3枚だった
だから子供たちは葬式を待ちわびた
どこそこの爺さんか婆さんが寝込んだと聞くと・・
(もうすぐやな)と思った
葬式で拾ったお金はその日に使わなくてはいけないという不文律があって
拾ったお金はその足で駄菓子屋の‘おとう婆さん,の店に向かった
子供たちの中に・・
「おとく婆が死んだら絶対に撒くお金は百円玉にしてね」っていう子供がいて
おとく婆は・・
「分かった分かった私が死んだときは百円玉にするからね」って答えていた
そうしたところ‘おとく婆,がその後数日後に本当に亡くなった
葬式に撒かれたお金は10円玉だった
百円玉をおとく婆に頼んでいた子供が
「ちぇ!10円玉や」って言うた
さっきユウチューブでたまたま先斗町の夜の風景が出ていた
先斗町・・
もう何年も行って無いな
四条通を四条大橋に向かって橋の手前を左に折れると木屋町と先斗町の歓楽街
先斗町は道幅が狭くて人がすれ違うのにも気を使うほどの道幅だ
左右のお店は低い軒先の町家づくりで維新の時代から変わらない街並み
お店の入り口はスポットライトならぬ赤ちょうちんが仄かな灯りを醸し出す
鴨川寄りのお店は川原に突き出た高床式の納涼床に連なる
飲食の値段も鴨川に近いほど値の張る店が多い
19歳の時、秋口から年末にかけて四条河原町に足繁く通った
行き先は四条通のパチンコ屋「ミカド」
パチンコ屋の隣は大きな町家でパチンコ屋の前に坂本龍馬と中岡慎太郎の受難の碑?があった
パチンコに負けてお金が無くなると京都の町をさ迷った
夕暮れの木屋町から先斗町
四条大橋を渡って祇園から花見小路
パチンコのサンド(玉の貸し出し口)に入れる金が無くなってだから
残った金は数十円だ
一度先斗町で確認した事があった
ポケットにあった金は30円だ
30円握って酔客やアベックが行き交う夕暮れの先斗町を歩く
その時思ったんだ・・
(パチンコで儲けていっぺん納涼床で飯食うたらあ)
あくまでもパチンコで儲かってからが前提だ
昔も今もアホやった
今でも先斗町に貧乏ったれの僕の亡霊がさ迷ってるかもしれない
20歳の時上京して渋谷の代官山に住んだ正確には鉢山町と言う所だけど
桜が丘の学校から徒歩5分くらいだった
夜の学校が終わるのが9時半でこの時間に一杯飲みたいと思っても
渋谷に戻るのもかったるいし、かと言って住まいの近所は高級住宅地でほとんど飲食店が無かったので
いつも桜が丘のコンビニで酒を買っていた
コンビニの向かいにロス疑惑の三浦さんの輸入雑貨の店フルハムロードがあって
三浦さんは見かけなかったけれど美人の奥さんはよく見かけた
どうしても居酒屋で飲みたくなった時は中目黒のガード下まで足を運んだ
アパートから旧山の手通り、通称大使館通り出て坂道をだらだらと下り
15分ぐらい歩くと東急中目黒駅に着く
その頃の駅は古めかしくてガード下に飲み屋街があった
高校の同級生たちがアパートに遊びに来ると渋谷じゃ無くてもっぱら中目黒のガード下で気勢を上げた
一番行った店は今でもある大樽と言う店
すごく立派な店なんだけど昔はたぶんガード下だったような気がする
つまみや酒が僕に合ってると思っていたらその時の大将が高知出身だった
ある日いつもの様にガード下に行くと新しい店が暖簾を出していて
見たら串カツの店だった
串カツと言うと大阪名物だけど僕は上京する前の年まで2年ほど住んでいたんだけど
串カツやには入ったことが無かった
串カツやって大阪にもそんなに無くて、だいたいが新世界とか難波周辺に偏っていた気がする
中目黒のガード下でその串カツ屋に初めて入った
僕に合っていた
アルミの器に盛られた新鮮なキャベツ食べ放題
エビにイカにささ身にハムに一本づつ揚げたてを食べる
自然、タダのキャベツに手を出す
二度漬け禁止のソースに浸して
もう終いにキャベツを食べに来たのか串カツを食べに来たのか分らんようになって
だから串カツ3本ぐらいに熱燗2杯ビール1本で2000円くらいだった
(店はこんな貧乏人ばかりだったから儲からなかっただろう)
毎晩の様に2000円持って店に通ったけれど
お客は増えない
こんなに美味いのに
あっ!思い出した
立ち飲みだった
常連客はカウンターに立ってつまみにただのキャベツばかりを食べていた
あっという間に店は閉じられた
貧乏人の客がタダのキャベツ目当てに串カツを注文しないで居座ったからだろうな
わしか
19歳の時の一時期バイトで毎日大阪の通天閣の見える暮らしをしていた
バイト先が釜ヶ崎の通称あいりん地区、仕事は土方の手元
役立たずでいつも怒鳴られていたけれど親方は毎日仕事前に喫茶店のモーニングを奢ってくれたし
昼はショーケースに入ったおかずを選んで食べる一膳めし屋で一端の土方気取りをしていた
あの頃の新世界は釜ヶ崎よりずっと怖くて行かれなかった
20歳の時上京して今度は毎日東京タワーが見える暮らしをした
ほとんどタワーを見上げる事は無かったけれど
食事は三食共職場で出た通称サラメシだ
最近よく増上寺に行く機会があって東京タワーを見上げると
(そう言えば東京タワーってあったんだ・・)と思うことがある
暮らしに慣れると通天閣も東京タワーもあって無いようなもんだった
灯台下暗しだったんだね
朝一番に有線放送をつけたら松山千春の‘旅立ち,が流れてきた
40数年前まだ十代の頃、夕暮れの御堂筋にこの曲が流れていた
阪急三番街の紀伊国屋書店からだ
阪急東通り商店街のパチンコ屋から出てナビオ阪急前の交差点を渡り
阪急電車の乗り場に向かうエスカレーターを目指すと必ず紀伊国屋書店の前を通る
そうするといつも流行りの曲が店から流れていた
阪急百貨店のコンコースが賑やかにイルミネーションされて
地下街から御堂筋からアーケード街から人々がせわしなく行き交い
家路を急ぐ
そこには待ってくれる人がいて、だんらんがあって疲れをいやす空間があって
明日への希望と活路が開かれて
その時の僕には何も無かった
黒いスリムなジーパンと革ジャンもどきのビニールジャンパー
いつも同じ格好をしてそっと人ごみの中に蹲っていた
今でも梅田に行くとそんな僕の亡霊が歩いていたりして・・
てへっ!
20歳の時上京して代官山に住んだ
バイト先が虎の門にあったので地下鉄銀座線で渋谷から虎の門まで通っていた
表参道、青山一丁目、赤坂見附・・
夜の授業をたまにさぼって赤坂で途中下車してよくパチンコ屋に行った
渋谷は若者の街、新宿は田舎者の街、赤坂は大人の街だ
その頃、裏通り料亭街は夜になると多くのハイヤーが路上にずらっと並んでいて
お大臣の送り迎えに店の女将や仲居さんが店先で忙しく立ち振る舞っていた
バイト先の忘年会でDrの奢りで初めて料亭に入った時初めて食べた鍋料理の旨さにびっくりした
ロシア料理のボルシチに土佐料理店、一木通りの喫茶店にはスター達が集っていた
TBSの地下に高級寿司店があってバイト先のDrがホステスさんを連れて食べに行ったと聞いて
「なんぼ持って行けば食べられるんですか?」と聞いたら
「10万もあれば大丈夫やろ」と言うんで
10万円持ってその店に彼女を連れて食べに行ったら二人で5千円だった
休みの日には繁華街の反対側に行った
弁慶橋を渡ると赤坂プリンスホテルにニューオオタニ
ニューオオタニの庭園は出入り自由
庭園を抜けると上智大学のグランドを見下ろす松林の土手があって
いつもラグビー部の練習を眺めていた
20歳の僕
いつの間にやら僕は60歳を過ぎた
料亭はほとんど無くなりロシア料理も無くなり韓国料理屋さんばかりになった
プリンスホテルも無くなり一木通りは安い店が増えた
寿司屋のその後はお金が無いので分からない
土佐料理やがんばってる
却って何軒か増えてる
有線放送から‘神田川,が流れて来た・・
あなたは♪もう・・忘れたかしら~♪
流行ったのはもう何年前だろう僕の小学生の頃か
上京したての頃初めてその神田川を見た時
(これがあの神田川)
と思ったのはたぶん僕だけじゃないだろう
三畳一間で同棲はした事が無いけれど三畳一間には住んだことがある
人生の一番輝く10代最後の2年間をその大阪のボロアパートで悲惨な生活を送った
アパートの近くに安威川と言うけっこう大きな川が流れていて暇なプー太郎だった僕は夕暮れになると
橋の下の壁にボールをぶつけてひたすら一人キャッチボールに興じた
ゴーという音が近づいてくると鉄橋を渡る茶色い車体の阪急電車が見えた
川の対岸の茨木の町が茜色に染まり秋風が吹き寄せて中洲のすすきの葉を揺らした
19歳の夏の終り何時も焦っていた
将来が見えない
何をすれば良いのか分らない
土手に座って煙草を吸っているとタッタッタと土手の上を走る音が近づいてくる
僕の後ろを体育大学の陸上部の女の子達がランニングで通り越した
白いTシャツと上下に揺れる胸元が眩しかった
彼女たちは目標に向かっている
僕にはその目標が無かった
19歳の夏の終わり白浜のホテルのバイトから大阪のアパートに帰ったら
アパートの前の路地でバットの素振りをしている若者がいた
(えらい元気な奴がおるな・・・)
そうしたら同じボロアパートの住人で越してきたばかりだった
何度か顔を合わせてたらそのうちに・・・
「キャッチボールの相手してくれへんか?」と言うので
(わしキャッチボールよりパチンコ打ってる方がええんやけど)
とか思ったけれどしびしぶキャッチボールの相手を何度かした
話を聞くと同じ高知出身で同い年だった
彼は野球部だったそうで僕はパチンコ同好会だった
彼はまじめな青年で夜は放射線技師の学校に行って昼間は病院で助手をしているそうだ
今回僕と同じボロアパートに越してきたのは働いている病院が職員住宅を新築するので
その間の仮の住まいだそうだ
職員住宅が出来上がって遊びに行ったらびっくりした
青いカーペットに窓じゃ無くてガラスドアに鉄の扉の1K
当時見た事も無いマンションの造り
聞くと住まいだけじゃ無くて学費から食費も皆、病院持ちとの事だった
(そんな旨い話があるんか!)
19歳の僕はその頃、将来の展望も見えずもがいていたんだけれど
俺のもそんな‘クチ,ないやろか?と思って聞いてみたら・・
「あるで、そやけど学校に受かってからや」と言うので
どうせなら東京に行ってみたいと思って東京の学校を幾つか受けたら一つ受かった
(昔は入るのが難しかったんやから)
学費こそ親に出して貰ったけれど結婚するまで病院で三食昼寝付きだった
あの時、彼に出会ってよかった
もう何十年も遠くなるような昔
19歳の夏、和歌山の白浜温泉で3か月ほどホテルの住み込みのバイトをした
ホテルの名は‘ハイプレイランド,白浜有数の大型ホテルだ
紀勢本線の白浜駅から路線バスに乗り白良浜の海水浴場前を通って急な坂道を上る
坂道の途中右側にそのホテルは建っていてホテルの裏側に太平洋が広がり
坂の上から対岸のホテル群にオーストラリアから白い砂を取り寄せた白良浜の海水浴場
海岸通りに立ち並ぶリゾートマンション、お土産物屋に立ち寄り湯などが一望でき
ホテルには広いプールと裏手には白い海中展望台があって海の中を覗く事が出来た
僕の仕事はホテル直営の中華レストランのウェイターで他の連中は配膳とか布団係だった
大阪のバイト先で知り合った連中4人と行ったんだけれど
最終的にバイトだけで100人くらいになって
従業員宿舎の大きな部屋でタコ部屋のような状態だった
何日か経つと住み込みなのでグループごとにあちこちで仲間割れが始まって
新しいグループが出来るんだけど
僕も最初の連中とは袂を割って別のグループに入ったりした
バイトは大阪とか京都の大学生がほとんどで
あの頃の大学生は一浪二浪が当たり前だったので僕より年上が多かった
宿舎では誰かが持ち込んだカセットテープレコーダーからいつも大瀧詠一の曲が流れていた
ぼくはここで初めて麻雀を覚えてスナックでカラオケを歌った
高校を卒業して大阪で暮らした2年間で唯一青春らしい3か月だった
あくる年に上京して全然それまでと違った人生を始めた
夏の思い出と言ったらビキニ姿の彼女と白い砂浜でオイルを塗り合って・・
とかの思い出はまったく無くって
夏・・暑い夏の思い出と言ったらチンジャラ♪チンジャラ喧騒の金属音と煙草のヤニの臭いが充満した
パチンコ屋で血走った目で台を睨みつけてる思い出しか無いな
まだお金があってクーラーの効いたパチンコ屋に居られるうちは良いけれど
お金なんてすぐ底を突いていつも熱波と湿気のこもった万年床の敷いた部屋に帰るしか無かった
我慢できなくなると便所の手洗いほどの台所の水道の下に頭を突っ込んで冷やしていた
19歳の頃か人生の先が見えなくってのた打ち回っていた
お金が無くて食べる物も無い、彼女も出来ない、ロクな奴と知り合いにならない、ロクな事を考えない
NHKの集金人と新聞の勧誘とトラブルになった、今思い出しても腹が立つ
梅田の歩道橋の上でおっさんに声をかけられた
タコ部屋への誘い(借金背負わせられて働かされるのは女性だけじゃ無かった)
あの頃、崖っぷちやったね
19歳の夏の終わりにいつものようにパチンコに入揚げてアパートに帰ったら
アパートの前でバットで素振りをしている青年に出会った
同郷の元高校球児だ
あくる年から彼のおかげで人生が逆転した
人生は出会いだ