昨日は天気も良くて暖かだったんで股引も脱いで築地から隅田川テラスを歩こうと
出かけました
聖路加ガーデン 脇から出発したんですが
日本中でこんな景色はたぶんここだけじゃないでしょうか
帰りに上野公園に寄ったら早咲きの桜が咲いていました
綺麗ですね
不忍池の傍らに世界一汚いおかまのグループがいました
昨日はどこか雪見の露天風呂に出かけようと思って上野駅に出たんですが
途中でかったるくなって来て他所さんのブログで見た上野のサウナに行って見ました
けっこう良かった、場所柄入るのに勇気がいったけど
安いし綺麗だし落ち着くし、ちょっと得した気分
アメ横も閑散としていたけど行列が出来ているのは人気のラーメン屋だけ
皆、SNS?で集まって来たんだろうな、口コミって奴だろうけど範囲が大きいもんな
僕の行ったサウナもそうだけどSNS恐るべし
サウナから上がって立ち食い寿司を食べて来ました。
酔っぱらったんで昼過ぎに帰って来た
やっぱ遠くに行かなくて良かった
西郷輝彦さんが亡くなった
歌やテレビドラマ、時代劇で活躍された方だが
僕にとって西郷さんの印象深い番組は何と言っても‘どてらい男,だ
花登筺、原作1973年放送開始
1973年と言ったら僕がテレビに一日中、噛り付いていた頃だ
立身出世する猛やん、演じる西郷輝彦、脇を田村亮はじめ有名俳優が締める
番組を盛り上げた俳優と言ったら坂田軍曹演じる藤岡重慶だ
初年兵の山下猛造をいびり倒す
「山下っ~!」と坂田軍曹が山下を怒鳴りつける言葉が一時お笑いでもてはやされた
その坂田軍曹がまた終戦後も山下の前に現れて山下に立ち塞がる
小学生の僕もまたこの意地悪な坂田軍曹に強烈な印象を持った
その後の僕の人生にこの坂田軍曹が何度も現れるんだ
先輩に苛められたり同僚や隣人に理不尽な扱いを受けた時なんて
そのたんび(どこにでも坂田軍曹はおるな)
と思った
僕にとっての悪い奴、嫌な奴は皆‘坂田軍曹,なんだ
今でも坂田軍曹が周りに何人もいる
藤岡重慶さん本人は多分いい人なんだろうけど
見る人に悪役はこうだと思わせる役者さん
今はあまりいないような
もう仕事が暇でしょうがないから久しぶりに京都でも行って見たいな
京都・・・
何故京都って惹かれるんだろう
18~9歳の頃足繁く四条河原町に通った
(パチンコを打ちにだけど)
阪急の四条河原町の駅を出て赤い鳥居の八坂の森に向かう
新京極にパチンコで儲かった時に行く寿司屋があっていつも安い寿司を食べてた
木屋町入口にパチンコで電車賃まで入れあげて160円借りた派出所があって
四条大橋を渡ると南座やら、めやみ地蔵さん、にしんそばやがある
僕が18歳の頃、コンビニはなかったけれど八坂の森を背景に情景が一緒なんだ
寿司屋も土産物屋もそば屋も同じ作りであの頃のまま
だから還暦の僕でもあの通りを歩いているといつのまにやら18歳に戻ってるんだ
たぶんずっと住んでいるとこの感覚は無いだろうな
今日も昼に風呂屋に行ったら洗い場でお客さんが倒れて救急車を呼んでた
最近、よく風呂屋で倒れる人がおるんや
昔、働いていた病院が救急病院だった
人出がいるので医者と看護師だけじゃ無くてリハビリの僕らも事務当直があった
ストレッチャーで患者さんを運んだり、いろんなトラブルに対処したり
テレビでは必然医者と看護師がクローズアップされるがいろんなスタッフの手助けが必要なんだ
ある日、僕の事務当直の晩
ちょうど今頃の時期寒い冬の夜
救急車が駅前で転がっていたおっさんの浮浪者を乗せて来た
救急隊と一緒に処置室に入ってベッドに乗せたら異様な悪臭がする
寒い外ではそれほどでも無かったんだが
暖房の効いた室内に入った途端、長年服に染み込んだ糞尿が溶け出したんだ
もう目に染みるような臭い
看護師が住所とか名前をおっさんに聞いたらぼそぼそとしゃべりだした
「わしは家は高知やきに」
それを聞いた看護師が僕に
「あんたと同じじゃない」
笑いながら言った
「僕は違いますよ僕はこっちに家はありますもん」
おっさんはぼそぼそと何やら言っていたが
僕は浮浪者のおっさんの方言を聞いていてぞっとした・・・
(わしの田舎の人間や・・)
うちの田舎は大阪から船の定期便が昔から就航していてさらに隣町が徳島県だから
関西弁と阿波弁の混じった独特の方言を話していた
僕は恐々浮浪者のおっさんの顔をそっと覗き込んだ
もちろん、おっさんと目を合わせないように
驚いた
(タケにぃ!)
うちの田舎では身内でも親戚でも無いけど近所の若い衆に
名前の後に‘にぃ,を付けて呼ぶ風習があった
看護師から「あんたと同郷ね」と言われたけど
(同郷どころか知り合いじゃ)
タケにぃが僕の顔をチラチラと見るんだけど
たんびにさっと顔をかわして悟られないようにした
タケにぃは僕の顔なんかもう覚えては無かっただろうけれど
僕はタケにぃのしゃべる方言ですぐに分かった
僕はその時、タケにぃの前で完璧な標準語で通した
もちろんタケにぃに
「タケにぃわしじゃわしじゃ・・」
とは絶対に言わなかった
もちろん周りのスタッフにもけっして知り合いだと言わなかった
それにしてもタケにぃ
四国のちっぽけな田舎町からこの関東の街でなにしとるんや・・
と思った
ましてや、わしの勤める職場のわしの当直の晩に
タケにぃ看護師さんやら助手さんに体を綺麗に拭いてもらった明け方
病院から逃げた
ライブ配信の研修が続いているけど
皆、ほんまにちゃんと見てるのかな・・・
大学生なんかオンラインの授業が多いみたいだけど、だとしたら実家を離れる意味が無いな
だけど自立心を養うには親元から離れた方が良いかも
でも最近、世間は物騒だし
僕も40年以上昔に親元を離れた
最初は母親が付いて来てくれた
大阪で不動産屋を何軒か回り結局一番安いアパートにした
阪急沿線の小さな駅で三畳一間8千円
金で親に迷惑を掛けたくなかったんだけど結局兄弟3人の内で一番金で迷惑を掛けた
小さな駅の駅前なのにパチンコ屋は3軒もあった
これが人生のスタート地点に一歩足を踏み出した途端そこに足場が無かった言う元凶だ
まあ自分が他人様より弱かったと言う事だ
・・・
母と二人で駅前の小さな商店街で鍋釜を買った
二合炊きで保温機能の無い炊飯器にインスタントラーメン用の取っ手の付いた小鍋
折り畳みの足の付いたちゃぶ台
その日は母と二人で三畳間に布団を並べて寝た
末っ子だったので母としては3回目の旅立ちの手伝い
その頃、兄も姉も京都で学生をしていた
姉は一人娘って事で団地式鉄のドアが付いたアパートで家賃が破格の4万5千円
兄は賄付の下宿で家賃が5~6万だった記憶がする
下宿のすぐそばに鴨川が流れていた
どの兄弟の旅立ちにも初日に母は枕を並べて眠ったんだろう
しかし母が京都観光をしたなんて聞いた事が無かった
その頃、母も三つぐらい仕事を掛け持ちしていて
兄弟の仕送りに死に物狂いだったから
昨日、テレビニュースを見ていたら皇室の男の子がこれから受験に向かう姿が映った
・・・
(こんなん撮ってええんか?受験直前やん)
(落ちたらどうするんや)
きょうびの世の中変な奴が多いんだからあんまり映さん方がええんちゃうか
まっ!マスコミなんて他人の不幸は蜜の味と思ってるからな
一番感心しないのが芸能人とかが妊娠した時点で・・
「おめでとうございます。」って祝福するところ
生まれるまでそっとして置いてあげればいいのに
嫌な世の中
僕も昔受験をしまくった
3年続けた
ひと~つだけ受かった
それが現在に直結した学校なんだけど
これでも今と違って全国の生徒定員が1000人程度の時代だったから
表から?入るのは至難の業だったんだから
???
大学受験は関西の大学しか受けなかったけど
あの時、どこかの大学に受かって通っていたとしても
遅かれ早かれ東京には上京していたと思う
たぶん何処にいたとしても僕の人生に挫折は必至だ
それで心機一転か逃亡か分からないが東京には出て来ていたと思う
今の仕事には就いていないハズだから
どんな人生を送っていたかな
たぶんどん底を味わってるな
昨日は久しぶりに都内をウロウロとしました。
雪の中の梅の花が見てみたいと思って湯島天神に行きました。
それから浅草へ
隅田川になんだか分からない鳥がいました。