母なる川荒川左岸の低地に位置する旧吹上町明用の三嶋神社。「三嶋神社古墳」と呼ばれる前方後円墳の上に鎮まる。古墳自体は町内最大規模のもので全長55m。6世紀後半の築造と考えられている。埼玉古墳群の様に密集したものと比べこうした単体の古墳は時代が下ると取り壊されたり、地形の変動によって形がなくなる物も多いとされるが、古墳上に神社が勧請され残されるものの多いという。石室は破壊され写真にあるように拝殿前に敷石として利用されている。石室の材料だったものだ。神社の創設については不明ながら鶴間村の当主を務めた鶴間家が祭ったものと考えられている。三嶋社といえば伊豆の一宮。源頼朝が旗揚げした源氏所縁の神社である。勧請時期が鎌倉期まで遡れるのか興味は尽きない。
御祭神は事代主命。大国主命の御子で国譲りに際し、武御雷命に国譲りを了承し、その責を負い伊豆に赴いた神である。よって久伊豆神社は久しく伊豆に鎮まるとしてこの名がついたとも伝え聞く。本殿は前方上にあり後円部には祠が並んでいる。またその間は参道のような造りになっている。平成12年編集の「埼玉の神社」掲載の写真と比べ樹木が大幅に減っている。
鳥居前にはバス停となっている。周辺は農地が広がっているが、宅地の開発も行われている。例大祭には灯篭立てが行われているとある。
三嶋神社古墳は古墳時代の舟運を考える上で重要な場所に造られているという。現在の荒川と、元荒川を結ぶS字状の旧水路の元にあるという。恐らく古墳の祭主は当時の河川運河の番をしていたものと考えられるようだ。埼玉古墳群にも見られる古墳に使用された房州石は海運を使い運ばれ特に荒川流域では赤羽台からも発見されているという。
古墳時代において舟運は物資を運ぶ重要な手段で、宝塚古墳からは船形埴輪が出土している。
また戸田市南原遺跡から出土した埴輪からは胸に色彩画があり船と考えられている。これらのことは埴輪の人物が海部であることを物語っていて荒川流域の要所に津があって、海部の同族が連携しながら荒川の水運を担っていたと考えられてる。