行田市民大学第18回講座は「郷土の歴史を学ぶ」。新年初めての講義ですが、一年生の講義も残すところあとわずか三回となりました。ここまで様々なテーマで学んできましたが、やはり郷土史に関するものは皆さん感心高く、質問も多く出ていました。講師は前古代蓮会館館長清水威男先生です。
現在行田市郷土博物館友の会の会長も務められています。
清水先生は行田市の歴史文化を調べるにあたり、市内に伝来する縁起や伝説などを詳しく調査されています。行田市には昔話の語り部の会もあり、やはり郷土史研究が盛んです。その中には私の住む皿尾村についての伝承もあります。
私たちの班も現地調査した「小崎沼の伝説」も取り上げられました。万葉集に「小崎の沼」と「埼玉の津」を読んだ句が2首あり、埼玉地区の南東のはずれに小さな森に囲まれるよう小崎沼は佇んでいます。宝暦3年(1753)忍城主阿部正充により建てられた碑が残っていますが、現在ではここが埼玉の津(湾の入り江)として地層学的に認められないとは以前に書きました。また、小崎沼の伝承としてこの地に住むおさきといふ娘がかんざしを沼に落として、拾おうとして葦で目をついた挙句死んでしまい、以来沼には片目のドジョウが住み着き、片葉の葦が生えるようになった。またこの森の枝や葉を持って出ると、祟られるといわれていました。
また昭和40年代末には祈祷師の門井豊充が小崎沼の霊験を広めようと尾崎神社を創建し、布教を始めましたが、現在では跡を継ぐ者なく神社は森の中に眠っています。昭和50年当時、門井氏が行田市に様々な依頼交渉した際清水先生は担当されていたそうです。神社の歴史も様々です。
成田家の菩提寺龍渕寺の縁起については、開山時に皿尾村の高僧和庵清順が招かれたといいます。年度始め、のぼうの城に関する視察ツアーにでできた話です。成田家と皿尾は非常に関係が深く、忍城入城前一時皿尾に居を構えています。和庵和尚は寺の場所を決めるにあたり、七日間龍神に祈ったところ、龍ヶ淵の龍の化身が夢に出てきてこの地を霊場にするよう伝えて消えたとされます。その跡地に龍渕寺は建立されました。
現在行田市民大学が講義で使わせていただいているものつくり大学。行田市前谷にありますが、近世までは沼地だったといわれています。嘉吉元年(1441)この沼から鯨の吠えるような声がして村人が恐れ和庵清順和尚に祈祷してもらったところ大きな鐘が出現したといわれます。鐘は戦国時代の戦利品で筑波山の龍が盗んだともいわれています。
前谷は沼地で持田新田と呼ばれた深田の悪田だったそうです。(水はけの悪い水田)成田氏は田んぼを増やすた沼を埋めて田んぼにしてきた歴史があるそうです。また皿尾地区古くから治水が悪く、深田の悪田と言われてきました。ですので皿尾城は深田を利用した天然要塞だったと考えられるのです。
一年を通して郷土史を学ぶ中で皿尾城と久伊豆大雷神社の歴史が浮かび上がってくるようでした。
普段、書き込みをしていませんで、恐縮の次第。
よろしくお願いいたします。最初に読ませていただいた記事は、発掘調査がはじまったというお話。
推移を楽しみにさせていただきます。