長野口御門跡は城下町行田の東北隅にあたり、行田船着場として出入りの激しい要所であった。忍川と六ツ門から本町北を流れる川とが合流し、沼をなしたという。その沼に二つの島があり、西の島にお堂があって小沼堂といい、東にも島があり、小沼橋がかかり長野桜町へ向かった。
橋から北は一面葦に覆われ、沼の上を秩父線が走ってゆくのは不思議な感じであったという。
天正十八年(1590)忍城水攻めの失敗後、六月二十七日長野口から入った石田三成勢は大手口まで攻め入ったが、成田氏長の娘、甲斐姫の奮戦にて士気が上がった成田勢は石田勢を退けたという。
但しこうした成田記の記述は後世の加筆である可能性が高く、史実としてとらえるには注意が必要であることを市の教育委員会は史跡の解説として記している。
いづれにしてもここがかつての船着場として栄え、新郷川俣関所(羽生)から館林城へと至る重要な街道の出入り口であった。
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