皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍城鎮守 諏訪神社

2018-02-20 21:49:59 | 神社と歴史 忍領行田
第82代後鳥羽天皇の建久の御代(1190年頃)忍三郎、五郎一族が、この地に館を築いていたが、延徳三年(1493)頃成田下総守親泰が攻略し、近辺を統一したとされます。この時持田村の鎮守諏訪神社を移したのが、忍城諏訪神社の始まりと言われます。
御祭神は建御名方命。天孫降臨の際、高天ヶ原から国譲りを迫った建御雷神に対し、大国主命の御子事代主命は即座に応じたのに対して、建御名方命は拒み、建御雷命に力比べを挑みます。敗れた建御名方神は諏訪湖迄逃げ及び、我を殺さず、この地に鎮まり、国土を天孫に奉ると申したとされています。長野県の諏訪大社の起源で、この時の力比べが神事としての相撲の始まりと言われます。
成田家以降も代々の崇敬を受け、老中阿部忠秋は城郭を修築しています。

境内社の稲荷神社です。二ノ丸稲荷と呼ばれ、成田長泰が若い時に殺生した狐の親子を祀ったとされます。
文政に入り伊勢桑名から松平家が入り多度大社を勘請しています。天照大神の御子天津彦根命を祭ります。城主替わりに際して天神地祇、様々な神が祀られた歴史があるようです。
忍城は東側を表、西を裏とした平城で、広い沼地に囲まれた自然の要塞だったとされます。忍の浮城と呼ばれたことはあまりにも有名です。この城の鎮守とされた諏訪神社は代々の藩主から崇敬されていました。明治の廃藩置県により、反政府の普代藩は取り潰され、城内の建物は入札の名目で、引き払われていきました。要するに処分費用も負担させられたのでした。
現在残る遺構として、加須市の総願寺不動尊の黒門は、かつての忍城北谷門だと言われます。
行田市の中心部の20町会は諏訪神社の氏子として成り立っており、祭りの運営を担っているそうです。
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グループ研究発表を前に

2018-02-19 22:47:13 | 生涯学習
行田市民大学9期生研究発表が今週木曜日に迫りましたが、今日は研究発表資料の提出日でした。場所は行田市教育委員会会議室です。会計報告も済み、後は当日の発表を残すのみです。限られた時間のなかで、ここまでまとめられたことに充実感を覚えますが、やはり当日、短時間(持ち時間15分)で、自分たちの研究成果を伝えるために必要なことは何かを自問しています。要点を絞ること、掘り下げすぎず、興味が向きそうなテーマで話を広げること。また時間は厳守しながらも話す速度に余裕を持つこと。
普段の生活で多くの人前で話すこと(プレゼン)の機会はあまりありません。こうしたチャンスを活かせるか、楽しみのほうが多く、機会を与えていただいたことに感謝しています。教育委員会の各校の取り組みです。市街地の中心校では、神輿など祭りに参加する学校が多いようです。更に少子化、過疎化の進む農村部は農作業や年配者との交流をしているところもあります。私の子供の学校は後者です。待っているだけでは何も変わらない、始まらない。そういう気持ちで今年一年過ごして来たように感じています。
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北新宿 山神社

2018-02-19 21:45:43 | 神社と歴史
旧吹上町北新宿の山神社。JR行田駅から吹上方面に向かって一キロほどにあります。ここ数年で商業施設ができ、新興住宅が増えましたが、昔から元荒川左岸に位置し、自然堤防上に集落があったとされています。古くは忍領の太井村に含まれ、その太井村も熊谷市太井、門井、棚田(行田市)、そして新宿と別れました。明治期に同じ北埼玉郡に新宿村(蓮田市南新宿)があり、北新宿と改めているそうです。また読み方は「しんじゅく」ではなく、「しんしゅく」あるいは「しんしく」と濁らずに読むようです。
住宅地として周辺区域が開発され、見晴らしも様変わりしましたが、平成20年頃までは木々も多く、まさしく山神社といった感がありました。主祭神は大山祇神。
境内社として、浅間神社を祭祀していたことが見れます。昭和二十年頃までは鳥居には「正一位山神社」の篇額が掛かっていたそうです。恐らく土地柄荒川の洪水にも悩まされた処だったのでしょう。小高い塚に建てられた社殿は周辺区域の開発が進んだ今も、地域を見守るよう静かな佇まいを留めています。
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忍の涙橋

2018-02-19 21:10:59 | 行田史跡物語

忍東照宮北にある涙橋跡の石碑。天正元年(1573)成田氏長は、その妻、横瀬成繁田の娘と離縁したといわれます。縁切り橋で別れを惜しんだ妻は次の橋にて振り返り、涙を流して皿尾門から出ていったとされている。即ち涙橋として後世までつたえられた。その時忍城に残された一人娘甲斐姫はわずか二歳。それから十六年後、長刀の名手となった甲斐姫は、大宮口御門にて城兵を鼓舞し、忍城を守り抜いたと「成田記」は伝えている。
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行田酉の市の発祥 愛宕神社

2018-02-17 22:41:05 | 神社と歴史 忍領行田

古くは下町と呼ばれ、忍城の北東長野口に位置する愛宕神社は、行田酉の市の発祥神社として知られています。12月6日に行われる酉の市は今でも市内でも最も多くの人が訪れる祭となっています。当初は熊谷高木神社の酉の市を倣って行われていたそうです。
 境内の裏手には忍川が流れ、また近くには旧馬車道鉄道が通ったところです。古くは真言宗愛宕山長徳寺の境内地であったと伝えられます。文禄年間建立の長徳寺は忍城の北東=丑寅の方向にあり戦略上の要所とされていました。明治に入り長徳寺は廃され、火之迦具土神をご祭神として現在に至ります。
 火除の神としての信仰が厚く、下町には愛宕様が祀られているので他で火事が出たとしても、ここだけは免れるといわれてきました。行田は古くから火事が多く、防火の神として多くの神社が祀られてきました。酉の市は明治になって始まった比較的新しい行事と言えますが、町内会が一丸となって盛り上げてきた行田の貴重な文化と言えるでしょう。

末社として稲荷神社を勧請しています。商店街の多くは商売繁盛を祈願して稲荷神社を厚く信仰しています。初午は新暦ではなく旧暦で祝い三月にお祭りすることが多いようです。
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