山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた 菊舎
この句碑は黄檗山万福寺の総門から続く三門前・横にあります。
寛政2年(1790)3月に、38才の菊舎がこの寺を初めて訪れた時を詠んだ一句で、
白壁土塀の続く黄檗山の、中国明風のたたずまいに酔いしれて、
あたかも中国にいるような錯覚に陥り、異国に思いを馳せていたが、
境内から一歩三門を出ると、門前の茶畑から茶摘み唄が聞こえてきて、
ここは日本・・・宇治なんだ・・・と我に返った一瞬を詠んでいます。
菊舎とは一字庵田上菊舎といい、24才で寡婦となり再婚の道を選ばず、
俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い出家して諸国行脚に明け暮れ、
一世を風靡した江戸後期の女流俳人(美濃派)である。
放生池より三門を(ハスは蕾)
このように黄檗山萬福寺付近には茶園があり、宇治茶発祥の地とされるとともに、
煎茶道にも深く関与しております。つまり
隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、
インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなどとともに
中国文化として煎茶が日本へと持ち込まれました。
江戸中期には煎茶道の祖・売茶翁へと引き継がれております。
どうして煎茶道が盛んになったかというと
①茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発。
②煎茶自体が当時最新の中国文化であり、形式にとらわれずに煎茶を飲みながら
清談を交わすいわゆる「煎茶趣味」が文人の間で急速に広まった。
③煎茶趣味から煎茶道へと、売茶翁が模倣の域から独自の世界への方向を示された。
④煎茶は江戸や京都・大坂を中心に上流階級にも広く普及した。
伝統を守りつつも、
知れば知るほど 奥が深いものなのですが・・・
この句碑は黄檗山万福寺の総門から続く三門前・横にあります。
寛政2年(1790)3月に、38才の菊舎がこの寺を初めて訪れた時を詠んだ一句で、
白壁土塀の続く黄檗山の、中国明風のたたずまいに酔いしれて、
あたかも中国にいるような錯覚に陥り、異国に思いを馳せていたが、
境内から一歩三門を出ると、門前の茶畑から茶摘み唄が聞こえてきて、
ここは日本・・・宇治なんだ・・・と我に返った一瞬を詠んでいます。
菊舎とは一字庵田上菊舎といい、24才で寡婦となり再婚の道を選ばず、
俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い出家して諸国行脚に明け暮れ、
一世を風靡した江戸後期の女流俳人(美濃派)である。
放生池より三門を(ハスは蕾)
このように黄檗山萬福寺付近には茶園があり、宇治茶発祥の地とされるとともに、
煎茶道にも深く関与しております。つまり
隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、
インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなどとともに
中国文化として煎茶が日本へと持ち込まれました。
江戸中期には煎茶道の祖・売茶翁へと引き継がれております。
どうして煎茶道が盛んになったかというと
①茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発。
②煎茶自体が当時最新の中国文化であり、形式にとらわれずに煎茶を飲みながら
清談を交わすいわゆる「煎茶趣味」が文人の間で急速に広まった。
③煎茶趣味から煎茶道へと、売茶翁が模倣の域から独自の世界への方向を示された。
④煎茶は江戸や京都・大坂を中心に上流階級にも広く普及した。
伝統を守りつつも、
知れば知るほど 奥が深いものなのですが・・・
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