このごろ、書店へ行くと、「教養」の言葉をタイトルに付けた本をよく見かける。例えば、教養の文学というのがあって、読んでおいた方がいいという本の書名がずらりと並ぶ。また、あるいは教養の美術がいうものもあり、美術の歴史や主題、鑑賞のノウハウが書いてあったりする。
若い時分、私は知識不足のコンプレックスから、「教養」を身に付けたくて仕方がなかった。そうして文学、美術、音楽、映画、さらには科学の分野までありとあらゆる本を乱読したのである。ただ、ある時期から苦しくてたまらなくなり、すっぱりとやめてしまった。というのは、そういう行為は目的のないまま、広大な海を泳ぐようなもので、次々と押し寄せる波に呼吸が続かなくなってしまったのだ(私は完璧主義なところがあるせいかもしれない)。
先日亡くなった外山滋比古さんは『思考の整理学』のなかで、知識が多いだけの単なる物知りじゃいけない、モノを考えることこそが重要なのだと書いていた。私も同意見である。「教養」の本は、あくまできっかけとして使い、面白そうな小説があれば1冊でも手に取ってじっくりと読んで考えればいいし、興味を持った絵が1点でもあれば実際に所蔵館へ見に行くことが大切であろう。ありとあらゆる分野に精通するなど、人間の限られた時間のなかでは不可能である。なによりそういうことはインターネットが解決してくれる時代だ。広く浅く、ではなく、狭く深く、を私はお勧めしたい。
若い時分、私は知識不足のコンプレックスから、「教養」を身に付けたくて仕方がなかった。そうして文学、美術、音楽、映画、さらには科学の分野までありとあらゆる本を乱読したのである。ただ、ある時期から苦しくてたまらなくなり、すっぱりとやめてしまった。というのは、そういう行為は目的のないまま、広大な海を泳ぐようなもので、次々と押し寄せる波に呼吸が続かなくなってしまったのだ(私は完璧主義なところがあるせいかもしれない)。
先日亡くなった外山滋比古さんは『思考の整理学』のなかで、知識が多いだけの単なる物知りじゃいけない、モノを考えることこそが重要なのだと書いていた。私も同意見である。「教養」の本は、あくまできっかけとして使い、面白そうな小説があれば1冊でも手に取ってじっくりと読んで考えればいいし、興味を持った絵が1点でもあれば実際に所蔵館へ見に行くことが大切であろう。ありとあらゆる分野に精通するなど、人間の限られた時間のなかでは不可能である。なによりそういうことはインターネットが解決してくれる時代だ。広く浅く、ではなく、狭く深く、を私はお勧めしたい。