(1)1969年、イギリス国会で安楽死法案が否決された。否決されたが、賛成者が40パーセントもあった。
(2)この法案に対して、イギリスの医師会は特別なパネルディスカッションをひらき、安楽死法に否定的な結論をだした。
その報告の要点は、苦痛はやわらげられるし、患者はほんとうは死を望んでいない。新しく発見される治療法による治療のチャンスを奪うべきでない。医師が殺人をおこなうと、医師対患者の信頼関係がくずれる、といったもの。
(3)この報告に対し、患者の立場から、安楽死協会が回答した。
回答は、医師会が人間の自己決定権を問題にしていないことをきびしく追求した。
苦痛をすべて医師がとり除いてくれるわけではなく、現実に苦しみを引き延ばされている患者がいる以上、それが少数であるにしても、少数者の自己決定権はまもられるべきだ。孤独、知的退行、失禁の老人が安楽死をのぞむとき、社会福祉の拡大の約束を理由に、その意思を無視してよいか。また、医師会の報告は自殺を精神病としてとりあつかうべきだというが、健全な人間が熟慮して自分の生を決定するために死をえらぶことはある、うんぬん。
(4)<たしかに、いまの病院ではガンの末期患者はかならずしも無痛で生をおわっているわけではない。鎮痛の注射も常習性への危惧と、他の副作用への配慮から、十分にあたえられてはいない。それよりも、もっと次元のひくい問題で患者は苦しんでいる。看護婦がたりないので、苦痛をうったえても、すぐにはかけつけてくれない。注射にしても、看護婦の勤務にあわせて回数がきめられる。とてもたすかるまいと思うのにむりをして点滴をくりかえしている。これを知っている患者の身内は、だから、安楽死をねがうのだ。>
松田道雄はこう書いて、続ける。<日本の現実は、さらにひどい。場合によっては、近代的延命が、そのまま病院の営利につながる。>
そして、著者の友人の例をひく。意識がうすれた状態で、なおも点滴をいやがる友人の姿をみて、<学者としての彼を知っている私には気の毒に思えた。人間はもっと威厳をたもって死んでいい。>
(5)以上は、安楽死法案をめぐる医者と患者の立場の相違をしめすが、安楽死は、医者と患者とのあいだだけの問題ではない。
重症心身障害児・者【注】の側から、はげしい抵抗がある。
安楽死是認の論理には、世界は人口過剰、社会維持のため見こみなき延命は問題、といった理屈がはいっている。しかし、それは「強者の論理」である。
<弱者の論理」はそうではない。人間は生きているかぎり、「質」と無関係に生きる権利をもっている。「弱者の論理」は個人の論理であって、人類の論理でもなければ、階級の論理でもない。「弱者の論理」は人間を考えるが、地球という物質は考えない。「どんな社会になっても強者でないものの立場をつらぬくしか、個人は安全でない。>
(6)<地球の資源の有効利用というところから出発した安楽死推進は、やがて社会福祉の費用さえ、地球の資源をはやく消費するムダなものというところに、論理的にいきつくだろう。>
では、社会福祉をすすめることで、地球資源がはやくなくなったらどうするか。
<個人が威厳をもって死ぬことを選択できるように、人類も弱者をまもりながら威厳をたもって滅亡することができよう。>
(7)安楽死法制化に対する著者の考えをまとめると、<病院の経営と機構が巨大化し、医者と患者との関係が間化してきたことが、非人間的な治療をもたらしているのだから、治療における人間性の回復がさきであると思う。いまの病院の治療の非人間性をそのままにしておいて安楽死を制度化することは、安楽死さえ営業化される危険がある。>
【注】重症心身障害児・者は、重度の身体障害と重度の知的障害を併せもつもの。
□松田道雄「安楽死と弱者の論理」(『人間の威厳について』、筑摩書房、1975、所収)
*
松田道雄(1908-1998)は、小児科の町医者、評論家。ベストセラー『育児の百科』(岩波文庫)、『革命と市民的自由』ほか著書多数。
上に引いた松田の論考は、インフォームド・コンセントのかけらもなかった時期に発表されたものだが、彼が指摘する問題点は今も生きていると思う。医療においては、医療を施す側の論理が前面に出てきやすいが、医療を受ける側=患者には患者の論理がある。安楽死の問題においてはことに「弱者」の立場をどう保障するかが鋭く問われる。
松田には、安楽死について他に次の2冊がある。『安楽死』(岩波ブックレット 1983) 、『安楽に死にたい』(岩波書店、1997)だ。
【参考】
「書評:『医師はなぜ安楽死に手を貸すか』」
「【医療】尊厳死法は必要か(1) ~終末期医療~」
「【医療】尊厳死法は必要か(2) ~尊厳死法~」
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(2)この法案に対して、イギリスの医師会は特別なパネルディスカッションをひらき、安楽死法に否定的な結論をだした。
その報告の要点は、苦痛はやわらげられるし、患者はほんとうは死を望んでいない。新しく発見される治療法による治療のチャンスを奪うべきでない。医師が殺人をおこなうと、医師対患者の信頼関係がくずれる、といったもの。
(3)この報告に対し、患者の立場から、安楽死協会が回答した。
回答は、医師会が人間の自己決定権を問題にしていないことをきびしく追求した。
苦痛をすべて医師がとり除いてくれるわけではなく、現実に苦しみを引き延ばされている患者がいる以上、それが少数であるにしても、少数者の自己決定権はまもられるべきだ。孤独、知的退行、失禁の老人が安楽死をのぞむとき、社会福祉の拡大の約束を理由に、その意思を無視してよいか。また、医師会の報告は自殺を精神病としてとりあつかうべきだというが、健全な人間が熟慮して自分の生を決定するために死をえらぶことはある、うんぬん。
(4)<たしかに、いまの病院ではガンの末期患者はかならずしも無痛で生をおわっているわけではない。鎮痛の注射も常習性への危惧と、他の副作用への配慮から、十分にあたえられてはいない。それよりも、もっと次元のひくい問題で患者は苦しんでいる。看護婦がたりないので、苦痛をうったえても、すぐにはかけつけてくれない。注射にしても、看護婦の勤務にあわせて回数がきめられる。とてもたすかるまいと思うのにむりをして点滴をくりかえしている。これを知っている患者の身内は、だから、安楽死をねがうのだ。>
松田道雄はこう書いて、続ける。<日本の現実は、さらにひどい。場合によっては、近代的延命が、そのまま病院の営利につながる。>
そして、著者の友人の例をひく。意識がうすれた状態で、なおも点滴をいやがる友人の姿をみて、<学者としての彼を知っている私には気の毒に思えた。人間はもっと威厳をたもって死んでいい。>
(5)以上は、安楽死法案をめぐる医者と患者の立場の相違をしめすが、安楽死は、医者と患者とのあいだだけの問題ではない。
重症心身障害児・者【注】の側から、はげしい抵抗がある。
安楽死是認の論理には、世界は人口過剰、社会維持のため見こみなき延命は問題、といった理屈がはいっている。しかし、それは「強者の論理」である。
<弱者の論理」はそうではない。人間は生きているかぎり、「質」と無関係に生きる権利をもっている。「弱者の論理」は個人の論理であって、人類の論理でもなければ、階級の論理でもない。「弱者の論理」は人間を考えるが、地球という物質は考えない。「どんな社会になっても強者でないものの立場をつらぬくしか、個人は安全でない。>
(6)<地球の資源の有効利用というところから出発した安楽死推進は、やがて社会福祉の費用さえ、地球の資源をはやく消費するムダなものというところに、論理的にいきつくだろう。>
では、社会福祉をすすめることで、地球資源がはやくなくなったらどうするか。
<個人が威厳をもって死ぬことを選択できるように、人類も弱者をまもりながら威厳をたもって滅亡することができよう。>
(7)安楽死法制化に対する著者の考えをまとめると、<病院の経営と機構が巨大化し、医者と患者との関係が間化してきたことが、非人間的な治療をもたらしているのだから、治療における人間性の回復がさきであると思う。いまの病院の治療の非人間性をそのままにしておいて安楽死を制度化することは、安楽死さえ営業化される危険がある。>
【注】重症心身障害児・者は、重度の身体障害と重度の知的障害を併せもつもの。
□松田道雄「安楽死と弱者の論理」(『人間の威厳について』、筑摩書房、1975、所収)
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松田道雄(1908-1998)は、小児科の町医者、評論家。ベストセラー『育児の百科』(岩波文庫)、『革命と市民的自由』ほか著書多数。
上に引いた松田の論考は、インフォームド・コンセントのかけらもなかった時期に発表されたものだが、彼が指摘する問題点は今も生きていると思う。医療においては、医療を施す側の論理が前面に出てきやすいが、医療を受ける側=患者には患者の論理がある。安楽死の問題においてはことに「弱者」の立場をどう保障するかが鋭く問われる。
松田には、安楽死について他に次の2冊がある。『安楽死』(岩波ブックレット 1983) 、『安楽に死にたい』(岩波書店、1997)だ。
【参考】
「書評:『医師はなぜ安楽死に手を貸すか』」
「【医療】尊厳死法は必要か(1) ~終末期医療~」
「【医療】尊厳死法は必要か(2) ~尊厳死法~」
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