語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『兵役を拒否した日本人』

2016年04月17日 | ノンフィクション
 ドストエフスキーの一登場人物はいった、「イエスが現代に甦ったならば、今の教会から異端と宣告されるであろう」と。
 原点に立つ宗教者は、現実と対峙する。制度化され、社会体制に組みこまれた宗教組織とも鋭く対決する。

 戦前、無教会主義キリスト教の一派、ワッチ・タワーの初代日本支部長をつとめた明石順三も現代に甦ったイエスの一人であった。
 明石は1889年生、18歳で渡米した。ロサンゼルスやサンフランシスコで邦人向け新聞の記者として働くうちにワッチタワーの運動にふれ、入信。帰国して灯台社を設立し、1926年から精力的に伝道した。最初は神戸に拠り、ついで本拠を東京へ移した。

 記者の経歴からもわかるように、明石は広い社会的視野の持ち主であった。その伝道は、既成宗教団体の腐敗を批判するだけでなく、ファシズム批判や戦争批判におよんだ。
 当然ながら当局ににらまれ、1933年に最初の弾圧を受けた(大本教弾圧に先立つ)。
 明石は屈せず、2年後に再建する。当時、組織的に戦時下抵抗をおこなっていた共産党は壊滅状態にあり、まさにその名のとおり、灯台社の活動は暗夜の灯であった。

 折しも徴兵された社員の3名が兵役を拒否する。
 銃器を返還したときの上司の反応は、周章狼狽、動転、畏怖であった。
 事態を重視した当局は、1939年、第二次弾圧に踏みきる。支部長の明石から奉仕員の少女まで130余名の社員を連行して、数年間にわたる拷問、暴行、迫害のかぎりをつくした。
 弾圧は朝鮮や台湾(高砂族)の信者にもおよび、とりあつかいは苛酷であった。
 その結果、明石の妻をはじめとする多くの社員が獄死、病死、発狂する。

 兵役を拒否した村本一生は、獄中手記で、中国侵略の不当性を衝き、日本の敗戦を予言した。村本は生きのびて、戦後、栃木県の鹿沼に居を定めた。
 明石も生きながらえて敗戦をむかえ、村本と合流した。戦後、新たに手にしたワッチ・タワーの文献をむさぼるように読んだが、失望する。
 明石は、米国の総本部へ7か条にわたる長文の批判書を送った。米国のワッチ・タワーが国旗を掲げたのは信仰への裏切りではないか、戦争に協力したのは単に組織拡大に窮々としただけではないか、云々。
 そこには、教義に忠実に非戦を貫いた自信があふれている。
 総本部は応えず、除名の処置をもって対処した。思想の正邪を問わず、組織による物理的的排除をおこなったのである。

 ワッチタワーとの関係を断たれてからは、明石は伝道に従事していない。
 晩年、執筆に没頭したが、その立場は戦前から変化していない。村本一生も静かに市井に生き、あえて戦時下抵抗を誇ることはなかった。

□稲垣真美『兵役を拒否した日本人 -灯台社の戦時下抵抗-』(岩波新書、1972)
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