<プロテスタントの場合、地獄の解釈は、弱い。なぜなら、地獄がいかに恐ろしいところかという論理で人を諌めることはしないからです。その論理はもう、カトリックがたっぷり使ってきたためです。地獄に触れるということは、まずその恐ろしさを言い、その次に地獄に行かないで済むためにはいくらいくらのお布施をしなさいというカトリックの語り口と、つながっています。それに対する忌避反応があるため、プロテスタントはほとんど地獄の話をしません。地獄とは、ダンテの『神曲』(14世紀前半成立)のイメージや概念から、ヨーロッパにおいては、ほとんど発展していません。
しかし、地獄の軽視は、ややもすると、悪を軽視することにつながります。どういうことかと言えば、ヨーロッパのキリスト教、カトリックとプロテスタントの根本的な問題として、原罪という考え方があります。罪から悪が生まれると考えるので、本来、悪についてはすごく敏感な宗教であるはずです。ところが、カトリシズムもプロテスタンティズムも、悪に関してやや鈍感になるのには、アウグスチヌスの影響があります。
アウグスチヌスは、「神が悪をつくったとするならば、それは神ではなくて悪魔ではないか」と考えました。だから、悪はそれ自体として自立しておらず、善の欠如が悪であると考えました。例えば、穴開きチーズがあります。悪は、穴開きチーズの穴みたいなもので、すべて穴のないチーズができれば、悪はこの世からなくなる。いわば善が充満していないのが悪なのだ、という考え方です。
しかし、本来の悪とは、そのような甘いものではない。そう考えたキリスト教もあり、それはビザンツ神学に伝わりました。ロシア正教などに、悪のリアリティとして厳しい形で残りました。だから19世紀に、ドストエフスキーが当時の西側世界、欧米に強いインパクトを与えるわけです。あれは悪のリアリティを描いているからです。
例えば『罪と罰』で、ソーニャは黄色い鑑札を持って体を売り、実父と継母(ままはは)と幼い妹を食べさせています。彼女は聖書を持って祈りを絶やしません。継母はその姿を見て手を握ってありがとうと言い、聖書を読み、祈る。しかし継母は、ソーニャが体を売って稼いできた銀貨はポケットに入れます。翌日になると、ソーニャはまた売春に出掛けていく。だから、深い悔い改めの信仰はあったとしても、心理的には変わらず、行動は全然改まりません。
これはまさしく悪の構造です。前半でルターのところでも触れた、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」という、パウロが言っていることをリアルに描いています。
ですから、日本の仏教で「地獄絵」が発達していることや、地獄、罰(ばち)の怖さを教えることは、ある種、ビザンツ神学に近いように思います。このことを無視してはいけません。学ばなければいけないことだと思います。悪のリアリティは、重要な問題です。>
□佐藤優『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』(KADOKAWA、2018)の「第三講 日本と革命」の「「悪」のリアリティ」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】宗教は似ているところほど、どこも面倒である」
「【佐藤優】映画『沈黙-サイレンス-』をプロテスタント的に語る」
「【佐藤優】創価学会のドクトリンからすると靖国神社に英霊はいない」
「【佐藤優】宗教者の戦時下抵抗 ~大本教のスサノオ・オオクニヌシ信仰~」
「【佐藤優】亡くなっても魂にも個性がある/ウアゲシヒテ「原歴史」 ~「日本」論(6)~」
「【佐藤優】葬式は宗教の強さに関係する ~「日本」論(5)~」
「【佐藤優】紅白歌合戦の持つ大きな意味 ~「日本」論(4)~」
「【佐藤優】歴史的時間の「カイロス」と「クロノス」 ~「日本」論(3)~」
「【佐藤優】点と線の意味づけによって複数の歴史が生じる ~「日本」論(2)~」
「【佐藤優】江戸時代の「鎖国」は反カトリシズムだった ~『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』~」
しかし、地獄の軽視は、ややもすると、悪を軽視することにつながります。どういうことかと言えば、ヨーロッパのキリスト教、カトリックとプロテスタントの根本的な問題として、原罪という考え方があります。罪から悪が生まれると考えるので、本来、悪についてはすごく敏感な宗教であるはずです。ところが、カトリシズムもプロテスタンティズムも、悪に関してやや鈍感になるのには、アウグスチヌスの影響があります。
アウグスチヌスは、「神が悪をつくったとするならば、それは神ではなくて悪魔ではないか」と考えました。だから、悪はそれ自体として自立しておらず、善の欠如が悪であると考えました。例えば、穴開きチーズがあります。悪は、穴開きチーズの穴みたいなもので、すべて穴のないチーズができれば、悪はこの世からなくなる。いわば善が充満していないのが悪なのだ、という考え方です。
しかし、本来の悪とは、そのような甘いものではない。そう考えたキリスト教もあり、それはビザンツ神学に伝わりました。ロシア正教などに、悪のリアリティとして厳しい形で残りました。だから19世紀に、ドストエフスキーが当時の西側世界、欧米に強いインパクトを与えるわけです。あれは悪のリアリティを描いているからです。
例えば『罪と罰』で、ソーニャは黄色い鑑札を持って体を売り、実父と継母(ままはは)と幼い妹を食べさせています。彼女は聖書を持って祈りを絶やしません。継母はその姿を見て手を握ってありがとうと言い、聖書を読み、祈る。しかし継母は、ソーニャが体を売って稼いできた銀貨はポケットに入れます。翌日になると、ソーニャはまた売春に出掛けていく。だから、深い悔い改めの信仰はあったとしても、心理的には変わらず、行動は全然改まりません。
これはまさしく悪の構造です。前半でルターのところでも触れた、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」という、パウロが言っていることをリアルに描いています。
ですから、日本の仏教で「地獄絵」が発達していることや、地獄、罰(ばち)の怖さを教えることは、ある種、ビザンツ神学に近いように思います。このことを無視してはいけません。学ばなければいけないことだと思います。悪のリアリティは、重要な問題です。>
□佐藤優『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』(KADOKAWA、2018)の「第三講 日本と革命」の「「悪」のリアリティ」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】宗教は似ているところほど、どこも面倒である」
「【佐藤優】映画『沈黙-サイレンス-』をプロテスタント的に語る」
「【佐藤優】創価学会のドクトリンからすると靖国神社に英霊はいない」
「【佐藤優】宗教者の戦時下抵抗 ~大本教のスサノオ・オオクニヌシ信仰~」
「【佐藤優】亡くなっても魂にも個性がある/ウアゲシヒテ「原歴史」 ~「日本」論(6)~」
「【佐藤優】葬式は宗教の強さに関係する ~「日本」論(5)~」
「【佐藤優】紅白歌合戦の持つ大きな意味 ~「日本」論(4)~」
「【佐藤優】歴史的時間の「カイロス」と「クロノス」 ~「日本」論(3)~」
「【佐藤優】点と線の意味づけによって複数の歴史が生じる ~「日本」論(2)~」
「【佐藤優】江戸時代の「鎖国」は反カトリシズムだった ~『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』~」