(1)岩倉使節団【注1】は大胆な試みだった。まだ草創期の国家で2年近くも主要指導者がいなくなったのだから。そのおかげで、大久保利通、伊藤博文という近代化を主導するリーダーが得がたい知見、体験を持ち帰ったのだが、なぜそんな離れ業ができたのか。【山内】
第二次世界大戦後、アジア諸国が経済的な発展をみせ、「アジアの奇跡」と世界を驚かせた。このとき、成長の鍵は強いリーダーシップにあるとする「開発独裁」論が盛んに唱えられ、明治維新こそその嚆矢であると論じられた。しかし、これは正確ではない。蒋介石と蒋経国(台湾)、鄧小平(中国)、リー・クアン・ユー(シンガポール)、マハティール(マレーシア)など、アジアの開発独裁の特徴は大きく六つ。
①国内外の危機を契機として成立した。
②強力な一人のリーダーが独裁的リーダーシップをとった。
③それをエリート集団が支えた。
④開発イデオロギーが存在した。
⑤必ずしも民主的手続きではなく、経済成功で独裁を正当化した。
⑥その体制が数十年続いた。
これを明治維新と比べると①以外にはほとんどあてはまらない。一人のカリスマによる上意下達の独裁でもないし、革命指導者の支配が何十年も続くことはなかった。【山内】
維新の三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)は明治10年前後に相次いで世を去っている。【佐藤】
そもそも「三傑」という言葉が示すように、明治政府のシステムは、はじめから薩長を中心とした合議体だった。それが旧幕府も含めた超藩的な岩倉使節団を可能にした理由でもある。【山内】
もし明治政府が、例えば大久保利通の独裁体制だったら、彼が長期海外視察を行うことなど不可能だ。連合政権だったから、権力機構の半分が外遊し、後の半分が国内統治を進めるという離れ業が可能だった。【佐藤】
留守政府の意味と存在も大きい。西郷をはじめ、長州では財政通の井上馨や陸軍建設者の山縣有朋、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任といった代表的な人材が日本に残り、学制発布、初の全国戸籍調査、太陽暦への切り換え、徴兵令、地租改正といった実務的な改革を着々と行っていた。田畑永代売買禁止令を解いて、正式に土地を私有できるようにしたのもこの時期だ。【山内】
ただ、留守政府の内実は、西郷が残った薩摩は統制がとれていたが、木戸、伊藤を欠く長州はやや弱体化していた。その間隙を縫って巻き返しを考えたのが肥前の江藤新平で、司法卿としての井上馨の汚職を暴いたり、山城屋事件【注2】が起きて山縣有朋を失脚させたりと反薩長の派手な動きを見せた。そこで、山縣や井上を救うことで政府のバランスを維持させたのが西郷だった。【山内】
【注1】「【佐藤優】岩倉使節団が使った費用、100億円 ~明治初期~」
【注2】長州出身商人が無担保で陸軍省から巨額の資金を借り、投機に失敗した事件。
(2)なぜ明治維新においては圧倒的な指導者が出てこなかったのか。【佐藤】
幕末から明治維新にかけて重要な政治思想として公議輿論という考え方が出てきた。徳川幕府だけに任せていても駄目だから、みんなで話し合って決めよう、というのがそもそものスタートだった。参与会議がその例だ。文久3年の8・18クーデターで長州藩など尊王攘夷派が朝廷から追放され、公武合体派の土佐藩主山内容堂が熱心に推進し、有力諸侯が朝議参与として、隔日に京都で国政を議した合議体会議だった。徳川慶喜はこの会議の主導権を握りたかったのだが、特に薩摩の島津久光の反発があってうまくいかず、約2ヵ月で解体した。そこで徳川を棚上げにして、山内と島津のほかに福井の松平春嶽、宇和島の伊達宗城を含めた四候会議ができあがった。ここで大事なのは、この時点ですでに誰か一人の独裁者が治めるという考えは消え、集団的リーダーシップが前提になっていることだ。参与会議も四候会議も、形式だけみれば19世紀後半のムハンマド・アリー朝の「諮問会議」にも通じるが、エジプトではあくまでも君主が超越的に権威を行使し、幕末日本と比べると独裁度が高い。【山内】
チェチェンの長老会議は、いまでも多数決ではなく、満場一致方式の、長老によるコンセンサスで決定する。外敵が迫ったときだけ、征夷大将軍的なリーダーを置く。その場合、腹の中は反対でも、自分が少数意見だと分かったら黙ったまま、多数派に同意を表明して満場一致に持っていく。しかし、この方式だとどこに権力の中心があるのか分からない。【佐藤】
四候会議も穏やかな集団的リーダーシップをめざしたが、外圧の厳しさが高まる中で、公武合体や幕権尊重といった曖昧なやり方では処理しきれなくなる、。さらに変革運動の担い手が下級武士に移っていく中で、はからずも倒幕、廃藩置県のような過激な変革に導かれていったというのが実像だろう。では、島津や毛利など雄藩の諸侯たちが実権を失い、西郷、大久保、木戸らに主導権が移ったときに、彼らが強権的なリーダーとなったかというと、そうでもない。むしろ西郷ら政権を主導するリーダーと、その配下に位置するはずの実務エリート、肥前の大隈や江藤、長州の井上馨ら、少し世代を下って伊藤博文や山縣有朋らとの差がはっきりせず、藩間や藩内のグループ間での合従連衡が行われていく。【山内】
(3)組織論として興味深い話で、
①第一段階・・・・雄藩の諸侯たち、合議志向の強い殿様がリーダーとして現れる。
②第二段階・・・・本来なら諸侯たちを補佐するエリートだったはずの西郷、大久保ら下級武士がリーダーとなる。ところが、新しくリーダーとなった下級武士たちは、きちんとしたキャリアシステムを経ていないから、リーダーとエリートの境も曖昧だし、エリートを育成する仕組みも整っていない。【佐藤】
だから岩倉使節団においても、実務は幕府系のエリートに頼らざるを得なかったのだが、面白いことに、岩倉使節団に同行した多くの留学生から「次世代」のエリートが育っていった。金子堅太郎や牧野伸晃、米国で鉱山学を学び、三池炭坑の経営に成功して三井財閥の総帥となる團琢磨、「東洋のルソー」と呼ばれる民権思想家となる中江兆民、腹心として山縣有朋を支えた平田東助、女性教育をリードした津田梅子。さらには米国に密入国していた新島襄が、木戸に見出され、通訳として随行することになる。【佐藤】
新島はいわばもう一つの明治維新を生きた人物だった。幕末、日本が列強に滅ぼされるかもしれないという状況の中で、米国の内部に入り込んで、その内在的論理を学ぶしかない、と命懸けで米国に渡った。その結果、新島が出した結論とは、欧米と遜色ない人文系に強い大学をつくらなければならない、ということだった。それもミッションスクールは欧米の植民地化になってしまう。あくまでキリスト教の精神を持った日本人を育てるのだ、と日本語での教育にこだわった。【佐藤】
エリート集団の育成に最も熱心だった明治のリーダーは、伊藤博文。彼は帝国憲法と帝国議会をつくり、政党まで立ち上げた。しかし、それらと同じくらい力を注いだのは、帝国大学など大学制度の確立だ。国家のシステム、ステートクラフト(国政術)とは何かを勉強した伊藤は、憲法や議会を維持運営できる人材が最も重要だと気づいた。【山内】
そこで行われたのはいわばエリートの促成栽培だ。日本中からとにかく記憶力のいい若い人材を集めてきて、法律を覚えさせる。そして、行政や司法の現場に次々と送り込んだ。ちなみに、明治14年の政変で失脚した大隈が、翌年設立したのが東京専門学校、後の早稲田大学。福澤諭吉の慶應義塾、新島の同志社とともに、政府以外のエリート養成機関ができたことは、日本の「民間」を育てる上でとても大きかった。たとえば中国にも私立大学はあるが、エリート養成は圧倒的に官立が担っている。「誰がエリートを育てるか?」は国家にとって重大な問題だ。【佐藤】
(4)アジアの開発独裁と明治維新には、大きな違いがもうひとつある。リー・クワン・ユーにしても鄧小平にしても、アジアにおいてはとにかく経済成長だけが目標とされ、経済発展によってすべてが正当化された。【山内】
鄧小平の有名な白猫黒猫理論。「白い猫でも黒い猫でも鼠をとってくる猫がいい猫だ」。【佐藤】
しかし、明治維新の目的は最初からひとつではない。
①「富国強兵」
②「公議輿論」
の二つが最初から目標として掲げられていた。①はそのまま開発独裁のスローガンだが、その一方で広く議論を興していく②は、帝国議会設立の要求につながり、大きくいえば人々の政治参加、いわゆる民主化を志向するものでもある。これが、木戸孝允ら長州派によって早い段階から唱えられている。【山内】
帝国議会を開こうという流れと、帝国憲法をつくろうという流れは、本来、別々に存在した、ということ。これは明治政府のもうひとつの大目標である不平等条約改正を考えてみるとわかりやすい。日本と条約を結びたい諸外国にとって、議会があろうがなかろうが関係ない。しかし、憲法制定は決定的に条約改正と関係する。それは法治国家である証拠だから。つまり欧米諸国からすると、アジアの開発独裁下で民主化なんて進んでいない国でも、きちんと国際的なルールを守って、法律にしたがって商売してくれればいいわけだ。【佐藤】
条約改正を行うために、当時の日本に課せられたのは三つの改革だった。すなわち、行政改革、税制改革、法制改革。これが果たせてはじめて国際社会のメンバーとして認められ、治外法権が撤廃されて関税自主権が戻ってくるわけだ。【山内】
しかも関税自主権の獲得は、自国経済に直結している。税率を自分で定められなければ、自国産業の保護もできない。そう考えると、憲法制定はまさに①と結びついた話だった。かつて故吉野文六・元外務省アメリカ局長が面白いことを言っていた。「そもそも議員会館なんて、当時はなかった。あれは戦後になってできたんだ」と。官僚が議員会館に説明に行くこともなかった。戦前の国会、国会議員の存在感のなさをよく表している。【佐藤】
かつては宮中序列にしても、親任官、勅任官の序列が高い。親任官は、文官なら大臣以上、大審院長(いまの最高裁長官)、特命全権大使、東京都長官、朝鮮総督、台湾総督など。帝国大学総長は低くて、せいぜい親任官待遇として扱われることもあった。陸海軍の武官なら大将以上。中将、少将は勅任官。もし中将が参謀総長や軍令部総長、師団長、司令長官などにつけば、役職に就いている間は親任官として遇されるが、国会議員はそれよりも低かった。皇室儀制令による宮中席次は面白い。貴族院と衆議院の議長でさえ、第1階第12で、大将や大臣の下にくる。国会議員はもっとひどく、第4階第39で、男爵や本省次官・局長の下に来る。今の国会議員なら、宮中で目をむいて怒り出すだろう(笑)。【山内】
簡単にいうと、下に「閣下」がつくのが親任官。 【佐藤】
実は戦前には特命全権大使というのが10人いるかいないか。あとは基本的には公使。中国でさせ途中までは中華民国公使だった。戦後は大使の数がインフレになるが、最近まで外国で自分を「閣下」と呼ばせていた大使や総領事もいた(笑)。【山内】
今は変わったが、佐藤優が外務省に在籍した当時、便宜供与表によれば国会議員は中央官庁の局長と同格だった。県知事に至っては、官庁でいうと課長級。これは戦前、知事は任命制で、内務省の課長のポジションだった名残だ。最近改められて国会議員が上になったが。 【佐藤】
いずれにしても、明治維新では富国強兵、議会と政党の設立、憲法制定などの複数の目標を同時に追求しつつ、政策の重点や情勢の変化に応じて、その時々のリーダーが入れ替わり、柔軟に対応できた。それがあの時期を生き抜けた大きな要因だった。【山内】
□山内昌之×佐藤優『大日本史』(文春新書、2017)
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【参考】
「【佐藤優】岩倉使節団が使った費用、100億円 ~明治初期~」
第二次世界大戦後、アジア諸国が経済的な発展をみせ、「アジアの奇跡」と世界を驚かせた。このとき、成長の鍵は強いリーダーシップにあるとする「開発独裁」論が盛んに唱えられ、明治維新こそその嚆矢であると論じられた。しかし、これは正確ではない。蒋介石と蒋経国(台湾)、鄧小平(中国)、リー・クアン・ユー(シンガポール)、マハティール(マレーシア)など、アジアの開発独裁の特徴は大きく六つ。
①国内外の危機を契機として成立した。
②強力な一人のリーダーが独裁的リーダーシップをとった。
③それをエリート集団が支えた。
④開発イデオロギーが存在した。
⑤必ずしも民主的手続きではなく、経済成功で独裁を正当化した。
⑥その体制が数十年続いた。
これを明治維新と比べると①以外にはほとんどあてはまらない。一人のカリスマによる上意下達の独裁でもないし、革命指導者の支配が何十年も続くことはなかった。【山内】
維新の三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)は明治10年前後に相次いで世を去っている。【佐藤】
そもそも「三傑」という言葉が示すように、明治政府のシステムは、はじめから薩長を中心とした合議体だった。それが旧幕府も含めた超藩的な岩倉使節団を可能にした理由でもある。【山内】
もし明治政府が、例えば大久保利通の独裁体制だったら、彼が長期海外視察を行うことなど不可能だ。連合政権だったから、権力機構の半分が外遊し、後の半分が国内統治を進めるという離れ業が可能だった。【佐藤】
留守政府の意味と存在も大きい。西郷をはじめ、長州では財政通の井上馨や陸軍建設者の山縣有朋、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任といった代表的な人材が日本に残り、学制発布、初の全国戸籍調査、太陽暦への切り換え、徴兵令、地租改正といった実務的な改革を着々と行っていた。田畑永代売買禁止令を解いて、正式に土地を私有できるようにしたのもこの時期だ。【山内】
ただ、留守政府の内実は、西郷が残った薩摩は統制がとれていたが、木戸、伊藤を欠く長州はやや弱体化していた。その間隙を縫って巻き返しを考えたのが肥前の江藤新平で、司法卿としての井上馨の汚職を暴いたり、山城屋事件【注2】が起きて山縣有朋を失脚させたりと反薩長の派手な動きを見せた。そこで、山縣や井上を救うことで政府のバランスを維持させたのが西郷だった。【山内】
【注1】「【佐藤優】岩倉使節団が使った費用、100億円 ~明治初期~」
【注2】長州出身商人が無担保で陸軍省から巨額の資金を借り、投機に失敗した事件。
(2)なぜ明治維新においては圧倒的な指導者が出てこなかったのか。【佐藤】
幕末から明治維新にかけて重要な政治思想として公議輿論という考え方が出てきた。徳川幕府だけに任せていても駄目だから、みんなで話し合って決めよう、というのがそもそものスタートだった。参与会議がその例だ。文久3年の8・18クーデターで長州藩など尊王攘夷派が朝廷から追放され、公武合体派の土佐藩主山内容堂が熱心に推進し、有力諸侯が朝議参与として、隔日に京都で国政を議した合議体会議だった。徳川慶喜はこの会議の主導権を握りたかったのだが、特に薩摩の島津久光の反発があってうまくいかず、約2ヵ月で解体した。そこで徳川を棚上げにして、山内と島津のほかに福井の松平春嶽、宇和島の伊達宗城を含めた四候会議ができあがった。ここで大事なのは、この時点ですでに誰か一人の独裁者が治めるという考えは消え、集団的リーダーシップが前提になっていることだ。参与会議も四候会議も、形式だけみれば19世紀後半のムハンマド・アリー朝の「諮問会議」にも通じるが、エジプトではあくまでも君主が超越的に権威を行使し、幕末日本と比べると独裁度が高い。【山内】
チェチェンの長老会議は、いまでも多数決ではなく、満場一致方式の、長老によるコンセンサスで決定する。外敵が迫ったときだけ、征夷大将軍的なリーダーを置く。その場合、腹の中は反対でも、自分が少数意見だと分かったら黙ったまま、多数派に同意を表明して満場一致に持っていく。しかし、この方式だとどこに権力の中心があるのか分からない。【佐藤】
四候会議も穏やかな集団的リーダーシップをめざしたが、外圧の厳しさが高まる中で、公武合体や幕権尊重といった曖昧なやり方では処理しきれなくなる、。さらに変革運動の担い手が下級武士に移っていく中で、はからずも倒幕、廃藩置県のような過激な変革に導かれていったというのが実像だろう。では、島津や毛利など雄藩の諸侯たちが実権を失い、西郷、大久保、木戸らに主導権が移ったときに、彼らが強権的なリーダーとなったかというと、そうでもない。むしろ西郷ら政権を主導するリーダーと、その配下に位置するはずの実務エリート、肥前の大隈や江藤、長州の井上馨ら、少し世代を下って伊藤博文や山縣有朋らとの差がはっきりせず、藩間や藩内のグループ間での合従連衡が行われていく。【山内】
(3)組織論として興味深い話で、
①第一段階・・・・雄藩の諸侯たち、合議志向の強い殿様がリーダーとして現れる。
②第二段階・・・・本来なら諸侯たちを補佐するエリートだったはずの西郷、大久保ら下級武士がリーダーとなる。ところが、新しくリーダーとなった下級武士たちは、きちんとしたキャリアシステムを経ていないから、リーダーとエリートの境も曖昧だし、エリートを育成する仕組みも整っていない。【佐藤】
だから岩倉使節団においても、実務は幕府系のエリートに頼らざるを得なかったのだが、面白いことに、岩倉使節団に同行した多くの留学生から「次世代」のエリートが育っていった。金子堅太郎や牧野伸晃、米国で鉱山学を学び、三池炭坑の経営に成功して三井財閥の総帥となる團琢磨、「東洋のルソー」と呼ばれる民権思想家となる中江兆民、腹心として山縣有朋を支えた平田東助、女性教育をリードした津田梅子。さらには米国に密入国していた新島襄が、木戸に見出され、通訳として随行することになる。【佐藤】
新島はいわばもう一つの明治維新を生きた人物だった。幕末、日本が列強に滅ぼされるかもしれないという状況の中で、米国の内部に入り込んで、その内在的論理を学ぶしかない、と命懸けで米国に渡った。その結果、新島が出した結論とは、欧米と遜色ない人文系に強い大学をつくらなければならない、ということだった。それもミッションスクールは欧米の植民地化になってしまう。あくまでキリスト教の精神を持った日本人を育てるのだ、と日本語での教育にこだわった。【佐藤】
エリート集団の育成に最も熱心だった明治のリーダーは、伊藤博文。彼は帝国憲法と帝国議会をつくり、政党まで立ち上げた。しかし、それらと同じくらい力を注いだのは、帝国大学など大学制度の確立だ。国家のシステム、ステートクラフト(国政術)とは何かを勉強した伊藤は、憲法や議会を維持運営できる人材が最も重要だと気づいた。【山内】
そこで行われたのはいわばエリートの促成栽培だ。日本中からとにかく記憶力のいい若い人材を集めてきて、法律を覚えさせる。そして、行政や司法の現場に次々と送り込んだ。ちなみに、明治14年の政変で失脚した大隈が、翌年設立したのが東京専門学校、後の早稲田大学。福澤諭吉の慶應義塾、新島の同志社とともに、政府以外のエリート養成機関ができたことは、日本の「民間」を育てる上でとても大きかった。たとえば中国にも私立大学はあるが、エリート養成は圧倒的に官立が担っている。「誰がエリートを育てるか?」は国家にとって重大な問題だ。【佐藤】
(4)アジアの開発独裁と明治維新には、大きな違いがもうひとつある。リー・クワン・ユーにしても鄧小平にしても、アジアにおいてはとにかく経済成長だけが目標とされ、経済発展によってすべてが正当化された。【山内】
鄧小平の有名な白猫黒猫理論。「白い猫でも黒い猫でも鼠をとってくる猫がいい猫だ」。【佐藤】
しかし、明治維新の目的は最初からひとつではない。
①「富国強兵」
②「公議輿論」
の二つが最初から目標として掲げられていた。①はそのまま開発独裁のスローガンだが、その一方で広く議論を興していく②は、帝国議会設立の要求につながり、大きくいえば人々の政治参加、いわゆる民主化を志向するものでもある。これが、木戸孝允ら長州派によって早い段階から唱えられている。【山内】
帝国議会を開こうという流れと、帝国憲法をつくろうという流れは、本来、別々に存在した、ということ。これは明治政府のもうひとつの大目標である不平等条約改正を考えてみるとわかりやすい。日本と条約を結びたい諸外国にとって、議会があろうがなかろうが関係ない。しかし、憲法制定は決定的に条約改正と関係する。それは法治国家である証拠だから。つまり欧米諸国からすると、アジアの開発独裁下で民主化なんて進んでいない国でも、きちんと国際的なルールを守って、法律にしたがって商売してくれればいいわけだ。【佐藤】
条約改正を行うために、当時の日本に課せられたのは三つの改革だった。すなわち、行政改革、税制改革、法制改革。これが果たせてはじめて国際社会のメンバーとして認められ、治外法権が撤廃されて関税自主権が戻ってくるわけだ。【山内】
しかも関税自主権の獲得は、自国経済に直結している。税率を自分で定められなければ、自国産業の保護もできない。そう考えると、憲法制定はまさに①と結びついた話だった。かつて故吉野文六・元外務省アメリカ局長が面白いことを言っていた。「そもそも議員会館なんて、当時はなかった。あれは戦後になってできたんだ」と。官僚が議員会館に説明に行くこともなかった。戦前の国会、国会議員の存在感のなさをよく表している。【佐藤】
かつては宮中序列にしても、親任官、勅任官の序列が高い。親任官は、文官なら大臣以上、大審院長(いまの最高裁長官)、特命全権大使、東京都長官、朝鮮総督、台湾総督など。帝国大学総長は低くて、せいぜい親任官待遇として扱われることもあった。陸海軍の武官なら大将以上。中将、少将は勅任官。もし中将が参謀総長や軍令部総長、師団長、司令長官などにつけば、役職に就いている間は親任官として遇されるが、国会議員はそれよりも低かった。皇室儀制令による宮中席次は面白い。貴族院と衆議院の議長でさえ、第1階第12で、大将や大臣の下にくる。国会議員はもっとひどく、第4階第39で、男爵や本省次官・局長の下に来る。今の国会議員なら、宮中で目をむいて怒り出すだろう(笑)。【山内】
簡単にいうと、下に「閣下」がつくのが親任官。 【佐藤】
実は戦前には特命全権大使というのが10人いるかいないか。あとは基本的には公使。中国でさせ途中までは中華民国公使だった。戦後は大使の数がインフレになるが、最近まで外国で自分を「閣下」と呼ばせていた大使や総領事もいた(笑)。【山内】
今は変わったが、佐藤優が外務省に在籍した当時、便宜供与表によれば国会議員は中央官庁の局長と同格だった。県知事に至っては、官庁でいうと課長級。これは戦前、知事は任命制で、内務省の課長のポジションだった名残だ。最近改められて国会議員が上になったが。 【佐藤】
いずれにしても、明治維新では富国強兵、議会と政党の設立、憲法制定などの複数の目標を同時に追求しつつ、政策の重点や情勢の変化に応じて、その時々のリーダーが入れ替わり、柔軟に対応できた。それがあの時期を生き抜けた大きな要因だった。【山内】
□山内昌之×佐藤優『大日本史』(文春新書、2017)
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【参考】
「【佐藤優】岩倉使節団が使った費用、100億円 ~明治初期~」