熊谷市(旧妻沼町)西野444に所在する「斎藤実盛館跡 実盛塚」を訪ねてみました。しかし、今回もすんなりとはいかず、2度ほど場所を聞いて漸くと言う有様でした。
斎藤別当実盛 天永2年(1111)?~文治元年(1185)
最後まで平家への忠信を貫いた「智」の武将
平安時代末期に活躍した武士。久寿2年(1155)、源義平が叔父源義賢を討った大蔵館(嵐山町)の戦いでは、義賢の子で2歳の駒王(後の木曽義仲)を保護し、
木曽に送り届けたといいます。保元の乱、平治の乱では。源義朝につき活躍をしました。その後は、平家との結びつきを強くし、平家領である長井荘の荘官となったようです。
治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされます。源平の合戦(治承・寿永の乱)では、一貫して平家方につきます。治承4年(1180)の富士川の戦いでは、
「東国の案内者」として、東国武士について進言したといいます。寿永2年(1183)、篠原の戦いで、味方が落ちていく中ただ一騎踏みとどまり、幼い頃助けた
木曽義仲軍に討たれます。黒髪に染めた実盛を見た義仲は、さめざめと泣いたと伝えられます。実盛の子、宗貞・宗光も、平家への忠誠を貫きました。
実盛の言により、平清盛の嫡孫平維盛に妻子の警護を命じられ、子の平六代に最後まで仕えたとされています。
堤の右側を流れる川は「福川「と言うようです。
正直、遺構らしきものは全くありません。小さな塚の上に板碑が建っているだけです。
案内板を見ると、県指定史蹟を解除され、現在は市指定史跡となっているようです。
市町村指定史跡から都道府県指定史跡に あるいは都道府県指定史跡から国指定史跡はよくあることですが、たまにはこうした逆に解除もあるわけでして。
石碑には「長井庄斎藤別當實盛舘阯」とあります
板碑の文字は読み取れません
でもこうして分かるように説明板が建てられています。
灯籠型の箱の中には、2種類のチラシがありましたのでありがたく1部づつ頂いてきました。斎藤別当実盛公に対する知識がまた増えそうです。
冒頭の斎藤別当実盛公についての紹介は、この左側のチラシ(資料)の文面から引用させていただきました。
能の「実盛」とは、この斎藤別当実盛公のことだと初めて知りました(と言っても能を観たことはありませんが)
たとえ遺構に巡り合えずとも、こうした心遣いは遺構に出会えたくらい、いやそれ以上の嬉しさがあるものです。
また、管理をして下さる「斎藤別当実盛館跡史跡保存会」さんには感謝です。
今回の資料を参考にまた斎藤さんめぐりでもしましょうか。
散策日:2017(平成29年)1月21日(日)