四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

風車の見える丘のゴデチア

2024年06月05日 | 花・鳥・風景

東松山市大谷・大岡市民活動センターの南側の”風車の見える丘”で『ゴデチア』が見頃を迎えているとの
ことから訪ねてきました。
駐車場は満杯状態で沢山の方が見えていました。
ゴデチアは、原産地がアメリカ西部の一年草で、別名イロヨイマチグサ(色宵待草)、開花期は5月~6月 
花色は赤・ピンク・オレンジ・紫・白・複色
ということで、初めて見る花、初めて聞いた花の名でした。



























”風車の見える丘” その名の通りゴデチアの咲く丘の端から風車が見えました


オランダ風車と大岡市民活動センター


2024年(令和6年)6月4日(火曜日) 讀賣新聞〔朝刊〕から
沢山の人が訪れていたのはこの新聞でのニュースで知ってという人が多いかもしれませんネ


散策日:令和6年(2024)6月5日(水)

国指定名勝・天然記念物『長瀞』 指定から100周年

2024年06月02日 | 史跡・遺跡・文化財

国指定名勝並びに国指定天然記念物である『長瀞』(埼玉県秩父郡長瀞町・同皆野町)が、国の指定から
今年100周年を迎えます。
ともに指定年月日は大正13年(1924)12月9日で、指定範囲は旧親鼻橋から旧高砂橋まで、延長約4kmと
なっています。
「名勝」としては、荒川中流に位置する、三波川変成帯に形成された峡谷であり、景勝の地として。
「天然記念物」としては、結晶片岩の岩石段丘である岩畳や、世界で初めて発見された紅廉石を多く含む
紅廉石片岩、褶曲、断層、ポットホールといった様々な地質現象が観察できる地として。
といったように異なる観点から国の名勝・天然記念物にダブル指定されています。
※概要は、埼玉県教育委員会「埼玉県の国・県指定等文化財の一覧」を参考としました。


長瀞町の元の町名は”野上町”でしたが、『長瀞』が「日本地質学発祥の地」として有名になっていたこと
から、昭和47年(1972)11月1日、野上町から長瀞町へと町名変更したもので、一昨年50年を迎えました。




長瀞ライン下りの船着き場がある河原までのお土産店が並ぶ道(岩畳通り)の路地にある「地球の窓」
長瀞の看板と「名勝 天然記念物 長瀞」の石標柱
長瀞町を訪ねたのは初詣に続いて今年2回目です。岩畳のある場所へも同様です。



ライン下りの船着き場  この日ライン下りは休みだったようです


岩畳の上から荒川下流方向を
岩畳の上に上がるのも降りるのも岩場を歩くのも大変で、歩いたのもほんの数十メートル(膝が悪いので)



向こう岸の大きな岩が「白鳥島」のようです


更にアップで・・・


話が逸れますが、これは秋 美子さんの『長瀞旅愁』のレコード (昔買った数少ないレコード盤の中の一枚)
奇しくも野上町から長瀞町に変わった昭和47年(1972)に発売されたもので、長瀞町と同じ年数が経ちま
した。
この歌詞の中に ”泣いて別れた 白鳥島よ” というフレーズがありますが、当時、白鳥島について知り
ませんでしたので流行歌という形の物語を完成させる作詞上での架空の島の名なのかと思っていました。
しかし、最近になって白鳥島は実在し、いつも見ている上の写真が白鳥島と知った次第で、レコードジャ
ケットに写っていたのはまさに白鳥島であったのです。よくよく調べてみますと、この白鳥島の所在地は
長瀞町井戸で、現在は長瀞町の一部となっている元・白鳥村なのです。ということで、思い違いしていた
ことを作詞者にはお詫び申し上げます。
秋 美子さんはこの荒川を下った先にあるK市出身の歌手ですが、今はどうしているか全くわかりません。



上記の通り岩畳の上は数十メートル歩いただけですから多くの写真は撮れませんでしたが、あと3枚ほどを






岩畳まで行く前に昼食を摂ったお店 長瀞駅前通りにある 豚みそ丼専門店 有隣  です。
豚みそ丼(並) を食しましたが、肉が大変柔らかくおいしかったです。
秩父鉄道が経営する店で、名称の『有隣』は、論語の「徳不孤必有隣」(徳は孤ならず必ず隣有り)にち
なんで命名されたとのことです。


散策日:令和6年(2024)5月30日(木)

長瀞町郷土資料館と国指定重要文化財旧新井家住宅

2024年06月01日 | 資料館・博物館

長瀞花の里ハナビシソウ園を見学した後、同所にある『長瀞町郷土資料館』・『国指定重要文化財級新井
家住宅』(埼玉県秩父郡長瀞町大字長瀞1164番地)を見学してきました。
『長瀞町郷土資料館』
埼玉県長瀞町は、”地球の窓”と呼ばれ、”日本地質学発祥の地”とも呼ばれています。更に、比企郡小川町
と並んで関東の板碑石材(青石)の二大生産地と言われいます。そうした関連資料を中心に、【太古の長
瀞】・【原始・古代の長瀞】・【中世の長瀞】・【近世の長瀞】・「郷土芸能と行事】の展示をしていま
す。
『国指定重要文化財級新井家住宅』は、資料館の裏にあり、長瀞町大字中野上にあったものですが、昭和
50年3月に、現在の場所に移築されたものです。
いずれもさらっと見学してきた程度ですから説明もさらっとですが。
入館料は200円



【太古の長瀞】 ”地球の窓”と呼ばれ、荒川の清流にあらわれた渓谷美をほこる長瀞の大地が、どのよう
に作られてきたかを沢山のパネルで解説しています



【太古の長瀞】  1”地球の窓”長瀞から順を追って


【原始・古代の長瀞】 大滝遺跡出土石器


【原始・古代の長瀞】 川面(かわづら)遺跡出土品


【中世の長瀞】 中央の板碑(写真)は長瀞町にある日本最大の板碑「野本下郷石塔婆」(国指定史跡)


【中世の長瀞】  板碑に関する説明パネルが並んでいます


【中世の長瀞】 (長瀞町の板碑)  右側は【近代の長瀞】 のコーナー


山仕事の道具
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長瀞町郷土資料館の裏出入り口を出でると旧新井家住宅があります


説明版
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国指定重要文化財 旧新井家住宅の説明
新井家は徳川時代に代々当地方の名主をつとめた高い格式を誇る休暇である。この住宅は、長瀞町大字中野上121番地に
所在し、かつてこの地方にさん散在した板葺農家の典型的なものとして国の重要文化財に指定された。建物の年代につい
ては明らかでないが、家蔵の祈祷札のうち一番古いものは延享2年(1745)の年記があり、構造手法からみても時代の特
性を示すものであり、このころの建立と思われる。その後明治、大正、昭和を数次にわたり改修と受け 230 数年の星霜を
へて今日にいたった。町はこの建物を新井氏より譲り受け当地に移築保存することになり、昭和 50 年3月、国・県の補助
を受け復元工事を完了した。
                       所   在 長瀞町大字長瀞 1,164番地
                       名   称 重要文化財 旧新井家住宅
                       構造又形式 桁行 20.9 メートル、梁間 10.5 メートル切妻造、
                             一部2階、板葺、東面庇茅葺
                       指定年月日 昭和 46 年 6 月 22 日
建物は桁行 10 間半、梁間5間の板葺、切妻造で、一部に中 2 階を設ける養蚕農家である。平面は桁行を 3 分して、土間、
「ざしき」、「でえ」裏に「へや」「おくのでえ」が配されている。構造は上屋・下屋の区別がなく、柱は棟木または母
屋まで達するものが多く、小屋東は少い。この建造物の特徴としてあげられるのは、栗材の板葺石置屋根、内部の屋根裏
の「モヤ」に取りつけた竹を「あけび」のつるで結んだのが見どころと言える。又、軒下の関西風の格子を取りつけてあ
るのが美しい。
 昭和 51 年 3 月 15 日
                                文   化   庁
                                埼玉県教育委員会
                                長瀞町教育委員会」

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旧新井家住宅の表側  


1階「でえ」  左側「おくのでえ」  右奥「ざしき」


竹林の中に見える旧新井住宅
竹垣手前が宝登山神社参道から(神社にむかって)左折して長瀞町郷土資料館に至る坂道


散策日:令和6年(2024)5月30日(木)