献血後に体と対話する。
ヨガは「結び」だが段階がある。
初期段階に体と心の結びがある。
慣れれば、体の声を聞くことができる。
たいして難しいことじゃない。
「難しい」のは「難しいと思う心」があるからだ。
「難しいと思う心」は肩の力を入れてしまう。
たいして難しくないモノを、難しくしてしまう。
自然体になる事を目指しているのだ。
無駄な努力はいらない。
献血後の体は嬉しがる。
ワシは何故だか解らなかった。
「お、お前(ワシの体)は、マゾヒストか?」
大切な血を抜き取られたのだ。
少し、はしゃぎ過ぎじゃないのか?
(注:以前は自分の脈で自然に献血していたが、
最近は機械が吸い出すようだ・・・。
これって、「氣」の観点からは問題アリだ。
今の西洋医学は血の「生命の氣」の部分を理解してない。
自分から流れ出る血の方が生命は多いのに・・・)
この世がヒネクレている事。
「生命」がヒネクレている事を知ると、
献血後、体が喜ぶ理由が解った。
「コ、コイツ等(注:ワシの肉体です)、
新しい生命が生まれ、はしゃいでいる・・・」
血が出て行き、新しい生命が発生する。
一見、矛盾。
嫌な上司が転勤すれば、職場は活気付くかもしれない。
(注: ワシは組織勤め経験ありませんので想像です)
しかし、嫌な上司でも役にたっていたはずだ。
(ん? そんなことはない? 役立たずが多い?
ま、まぁ、建前論でもいいから・・・)
力(血)が抜けて、活気付くのはヒネクレているからだ。
「生命」と付き合うと、矛盾が起こる。
というより、今までの固定概念が間違っていたからだ。
矛盾はない。
あるいは、矛盾が、当たり前。
どっちだっていい。
「生命の氣」は次元を超えて発生するのだ。
ワシの体が生命の活気に喜んでいる。
同時に、何処かで使われる、
嘗てワシの体にいた(少しいいかげんな)血達。
共鳴して喜んでいるのを感じるのだ。
献血って、
わるくないぜ。
体も心も。
自も他も。
(本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間・氣功療法院」