ワシが「氣功療法院」を開院する前の話だ。
いろいろな人の体に氣功療法をさせていただいた。
ワシの経験をさせていただくのだから料金は無し。
とにかく、あらゆる事が初めてだらけだった。
いろいろな体がある。
いろいろな家庭がある。
いろいろな考えがある。
いろいろな悩みがある。
そして、いろいろな反応があった。
まだ氣功の御師匠様が存命の頃だ。
「治療費をもらわなくてはダメだぞ」
そう言われていたが、イマイチ意味を理解できなかった。
自分の能力も不明のままだ。
料金なんて言い出せない。
経験させていただく、こちら側が払いたいくらいだ。
(今でも、学びが大きいと、そう思う事がある)
数年前に亡くなったが、ワシの尊敬する人がいた。
関英夫先生だ。
(亡くなる一週間前に手紙をいただいた・・・)
故関先生の御著書の中にも書かれていた。
「適切な治療代は患者の為である」
初期は、本当の意味が解らなかった。
「代償」という意味を理解するようになり、
「お金」の意味が理解できるようになった。
ワシは理解できるが・・・
クライアントが充分理解しているわけでもない。
料金はワシの為じゃないのになぁ・・・
ワシがこんな体(氣功師)になる前の話だ。
ワシの母上は持病があった。
原因不明だから病院では治せない。
健康食品やら健康器具やら買った。
とても高額だった。
だが・・・変化は無かった。
「お金が代償」となるわけじゃない。
「代償としてお金」が使えるだけだ。
変化を求めて、幾らお金を注ぎ込んでも
「代償」でなければ変化はない。
変化は相手との交流・共鳴が前提だ。
変化できる相手と出会い交流した時、
「代償」は最後の条件になる。
そういう相手と出会えるのは
いろいろな意味を含め・・・「縁」だ。
例えば病気回復の場合
治療側が差し出している「病を受け取る覚悟」
(注:覚悟のある治療側のみの話ですよ~)
それに対応する「代償」はクライアント側だ。
単純に金額の多寡じゃない。
お金に乗せた「思い」が「代償」だ。
(本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間・氣功療法院」