トドクロちゃんと山登り

自然が好きで日本アルプスと近郊の山登り。
高山植物や四季折々の花を愛で。
史跡・歴史・ドライブがすきな自由人です。

上高地から前穂高岳ピストン

2019年09月16日 | データ
■2019.09.14 今回の山行は今日で3日目。
木曜日に新穂高から西穂入し宿泊、翌日に西穂ピストン後に上高地へ移動し宿泊、そして今日は前穂高を上高地からピストンで登る。
小梨平キャンプ場を4時30分頃にヘッデンを灯し歩き出す。
まだ明けきらない河童橋を通り前穂登山口へ。
登山口から30分程上った所で登山道に光るシートが・・・
年配の男性がビバークしていた、大丈夫か確認してから登り続ける。
山に日が掛かりだした。
天気が良さそうである。
この時期花は少ない。
07:14岳沢小屋
重太郎新道は早い時間は日陰でありがたい。
奥穂から西穂への稜線
昨日もこの天気ならな・・・
カモシカの立場
まだまだ
天狗コルへ登る登山者
ハイマツの実が食べ散らかしてある。
犯人はホシガラスです。
奥穂
吊り尾根を行く登山者。
09:34紀美子平
10:12前穂高岳
テニスで日に焼け見苦しいです。
首から下げているのは一眼レフ。
奥穂から西穂の稜線。
眺望は最高。
焼岳、乗鞍、御嶽山と上高地
富士山・南アも見えます。
すぐ前のギザギザは明神岳
槍からジャンダルムまで
奥穂から西穂
後立山から常念まで
ハチロウさんの居ない穂高山荘
涸沢カール
まだテントは少ない。
紅葉時期はテント1000張り、トイレ待ち時間2時間・・・ん、行きたいけど・・・・
鑓ヶ岳山荘も見えます。
南岳からの穂高も良い写真が撮れそうだ。
※西岳、赤岩岳、赤沢山もいずれ登りたい。
さあ下山します。
※明神岳
岳沢パノラマ
終わりかけです。
14:23岳沢湿原・岳沢登山口
ソール剥がれも無く無事下山。
観光者に混じって散策。
あら雲が出てきた。
お決まりの場所
さあそろそろ紅葉登山が始まる。
どこへ行こうかな?
テントを撤収後梓川沿いに河童橋まで歩く、3連休初日で混み合って来た上高地を後にして「平湯の森」へ
後は仮眠しながらでも帰えればいいので1時間ほどゆっくり温泉につかる。
 
長らく停滞していた百高山(標高の高い山100山)も+2座足して合計:96座になった。
それよりミスをすると危険な場所も多かったような気がする。
また南アの静かさでココを登れたら最高ですね。
 
■コースタイム:山行:8時間28分+休憩:1時間29分=合計:9時間57

河童橋04:39→04:53岳沢湿原・岳沢登山口→07:14岳沢小屋07:25→09:34紀美子平→10:12前穂高岳10:59→11:21紀美子平→13:15岳沢小屋→14:23岳沢湿原・岳沢登山口→14:36河童橋

 

実は西穂高岳初めてです。

2019年09月15日 | データ
今回は今まで登った事が無い山を登るシリーズです。
奥穂高岳・涸沢岳・北穂高岳はホワイトシーズン(春山)に登った事がありますがまだ西穂と前穂はまだ登っていない。。
そこで「西穂高岳」と「前穂高岳」を連続してピークハントで登る計画を立てた。

西穂高岳

従来周辺の山全体が穂高岳と呼ばれていたが、1909年に槍ヶ岳から穂高岳に初縦走を行った鵜殿正雄が、穂高岳のそれぞれのピークの山を北穂高岳、前穂高岳、奥穂高岳、西穂高岳と名付けた。実際には西穂高岳は山域の南西端のピークで、その中で唯一3,000 mに満たない。(Wikipedia)

■2019.09.18 この日は西穂山荘まで入るだけなので新穂高ロープウェイに2時頃到着。
鍋平登山者用駐車場に車を止め初めての新穂高ロープウェイに乗る。
夕方のこの時間は数人の利用者。
途中から雲の中へ入るロープウェイ外は真っ白もむなしく後ろには笠ヶ岳が見えるハズ・・・・
 
ロープウェイおり場から小一時間登ると西穂山荘にとうちゃこ。
受付をしガラガラの幕営地にテントを設営。
眺望も無く撮影もできないのでレストハウスで美味しい「もつ煮」で乾杯。
明日も早いので早めにシュラフの中へ。
■2019.09.13 4時頃起き出し、軽く食事。
露で濡れたテントを撤収(10時までに撤収しなけれならない)・・・ここのルールの様です。
玄関の仮置き場に45Lのザックを置く。
5時30分頃サブザックで歩き出す。
直ぐに丸山。
高曇りだがまずますの眺望。(新穂高側)
上高地側
西穂独標がもう直ぐだ。
06:25西穂独標バッグに笠ヶ岳が見える。以前クリア谷から登った時はしんどかった。
これから向かうルート
独標を見返す
06:38ピラミッドピーク
チャンピョンピーク
高曇りながら富士山や南アのシルエットが何とか見える。
08:05西穂高岳
軽く食事をし眺望を楽しむ。
これまでのルート
火山活動が気になる焼岳や乗鞍、遠く御嶽も見える。
ここから槍まで
奥穂~吊尾根~前穂
上高地は起きただろうか?
10時頃に晴れそうな予報だが・・・下山する事に。
ハイ松の実を咥えたホシガラス
09:46西穂山荘
あらテント貼りっ放しでも良かった・・・・
今日の最大の目的「西穂ラーメン」・・・美味しい。
ビールは残念。
ロープウェイ乗り場までは登り優先で止まること何十回。
やっぱり少し北の方から晴れて来た。
下りのロープウェイは団体さんにまぎれて混雑。
鍋平登山者Pから平湯の森へ移動。
温泉に浸かりリフレッシュしあかんだな駐車場へ。
14:50の上高地行きに乗る為バス停で・・・・
登山靴のソールが浮いている事に(両方)気がつく。
この靴は十何年使っていおり2014年にソールの張替えをしたが既に張替えから5年経過。
加水分解ではなく接着材の剥がれが親指の付け根から中ほどまで。
直ぐには剥がれそうではない為、サブバッグにテーピングと結束バンド・細引きを入れておこう。
中山道(3日)や奥駈道(6日)や南アルプス縦走(9日)はこの靴で歩いた。
15時過ぎに上高地着。
あらこんなのが設置された。
まだ平日人は少な目。
しかし水が綺麗ですね。
梓川沿いを歩く
明神岳
ここで幕営。
小梨平キャンプ場受付時に「カレー飯」が貰えた
以前からここでキャンプをしたかった。
設営後、近くのサイトの古いエスパーステントのおじさんと山話。
70歳を過ぎているこのおじさんもここは何時も素通りしていたので今回は散策の為に来たらしい。
西穂で出会った花達
明日は今日より早い早く寝なくては!
 
■コースタイム:山行3時間43+休憩30分=計4時間13分
西穂山荘05:30→05:36西穂丸山→06:25西穂独標→08:05西穂高岳→08:57西穂独標→09:39西穂丸山→09:46西穂山荘

2019年のテニス合宿

2019年09月08日 | テニス

■2019.09.07-08 今年で18回目の本合宿。

台風のコースも影響なく、残暑が厳しいなかプレーができた。

参加メンバーはチョット少な目で9名。

おかげで休憩は・・・・・

二日目は午前中テニスをし、お風呂に入り昼食を食べ帰路に着きます。

帰宅後、我家の猫とボールでじゃれる。

合宿の疲れも残っていない月曜日、昼からもテニスがあります。

これは退職後に仲間入りした「暇人テニス」と称するグループで隔週でプレーをしています。

結局、自由人になってからも週に3回から4回はテニスを楽しんでる。

そして本日、月曜日午前中は掃除の日。

座敷の茶ダンスの上やら、リビングに縦横無尽に置いてある過去の栄光。

これらを片付けます。

この中から特に取っておくべき物を数点チョイス。

他は残念ながら処分。

ここ4・5年は殆ど大会には出ていませんのでエンジョイテニスに変わってきました。

既にテニス歴は40年を越していますがやってて良かったとつくづく思います。

これからもテニスや山登りができる体力を維持しつつ出来るだけ長く出来ればいいと思います。


レンゲショウマと足助城

2019年09月06日 | データ
■2019.09.06 暑い時期に咲く可憐な花に出会えることを期待して足助町へ向かう。
盆前後から咲き始める花なのでまだ間に合うか?
 
個人のお宅の裏山にひっそりと咲いている。
お宅に声をかけ裏山へ向かう。
ホトトギス。
水引
編み物上手な蜘蛛。
人の手でもこんなに均等にできない。
まだ数株残っていた。
 
森の妖精:レンゲショウマ
 
終わっている花が多いなか蕾をまだある。
 
この花、何時か登山道で出会えたら最高ですね。
(聖沢の登山道にも咲いているらしい)
 
 
 
蜘蛛がレンゲショウマを守っているようだ。
 
 
少し移動して足助城
城跡公園足助城は、足助町制施行100周年を記念して、平成5年に開園しました。足助の古い町並みが一望できる標高301メートルの真弓山に、高櫓・長屋・物見矢倉・厨(くりや)などの建物が復元されています。発掘調査成果に基づく戦国時代の山城の復元は、全国で最も早い事例です。
 
発掘調査をして遺構跡からそうぞして建造された。
信州と三河の間にあるので山城が多い。
足助城の写真
直ぐ近くに紅葉で有名な香嵐渓がある。
 
足助氏(Wikipedia出典)

平安時代末期に浦野重遠の孫・重長が三河国足助の地に住んで足助氏を称したことに始まり、代々飯森城を本拠とした。また、同国の八条院領高橋荘とも関連があったとされる。鎌倉時代以降は御家人に列し、初代・重長の娘が鎌倉幕府2代将軍源頼家の室となり公暁を儲けるなど幕府との強固な繋がりを有した可能性が想定される。他方、鎌倉を結ぶ東海道および東山道の要地に勢力を持った清和源氏満政流は朝廷との繋がりも深く、後に源氏将軍家が断絶し承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると一族の多くが京方として戦った(承久の乱)。承久の乱において、足助氏では、足助重秀の子重成が討死にしたが、その後も足助氏は存続しているので、重成以外は鎌倉方だった可能性がある[1]

足助氏はその後も御家人として存続したが、4代目惣領・重方とその子・親重官位を有し昇殿をも許されるなど朝廷との繋がりは依然として深く、加えて一族の中には有力御家人安達氏との縁戚がおり、弘安8年(1285年)の霜月騒動で一族の重房連座して滅ぼされたことなどから、次第に鎌倉幕府への不満を強めていくことになる。

元亨4年9月(1324年10月)に6代目惣領・貞親(重成)後醍醐天皇による討幕の計画で、日野資朝俊基の招きを応じて、同じ美濃源氏土岐頼貞頼兼父子、その一族の頼員(舟木頼春)多治見国長らとともに倒幕に加担したが、頼員の密告により六波羅探題に露見されて、貞親らは自刃して果てた(正中の変)。そして、元弘元年(1331年)に元弘の乱では幕府が事前に知るところとなり後醍醐天皇は笠置山に逃れるが、この時真先に馳せ参じて天皇に味方したのが貞親の子である7代目惣領・重範であった。重範は天皇の呼び掛けに応じて集まった約二千五百人の総大将をつとめた。

重範の死後、足助氏は南北朝時代には南朝宗良親王を支援していたが、後に足助を離れて全国に散り散りとなった。だが、一部は室町幕府に降り奉公衆に取り立てられて重んじられたという。